私が小学生の頃は、(当時の呼び方で、町の中のひとかたまりの地域を指す。)中の子どもたちが集まって遊ぶのが常だった。
年長者がリーダーになって、遊び方も遊びの種類も代々下の者に伝わっていた。
私の時代の男の子は、野球が遊びの中心だった。
野球といっても、当時の田舎は貧しく、グローブ等の道具が十分にそろっていたわけではない。
各自が持っているわけではなく、グローブは攻防の度に限られた数を使いまわしていた。
当然、何も持ってない子もいた。
だから、ボールは素手でも受けられる小さめのソフトボールを使っていたのだ。
そして、一番の問題は野球をする場所である。
唯一のグラウンドである学校まで行くのは遠いし、競争率も高くほぼ使えない。
そこで、私たちは野球のできそうな適当な広場を探すのだ。
当時の田舎は、貧しくても庭は広い。
農作業に使うためだ。
だから、真っ先に向かうのは野球に適した庭だが、大抵そこには怖い顔をした主がいる。
うっかり球が軒先の窓や植木の盆栽などに当ったりしたら、それこそどんなに怒鳴られるか分かったものでない。
せいぜい、そこでできるのはキャッチボールくらいだ。
ところが、一ヶ所うってつけの場所を見つけた。
我が家の裏の畑脇にあった道が嵩上げされ、畑に続く空き地とつながってけっこうな広場となったのだ。
スペースの関係上、ダイヤモンドはかなり細長い菱形にした。
ピッチャーとファーストが兼ねられる程の位置である。
外野も右と左はほとんどなく、センターのみが極端に長い変則的な野球場であった。
その結果、自ずと打球をセンター方向へ飛ばすバッティングが身についたが、時々は振り遅れてライト側の民家に撃ち入れ、恐る恐るボールを取りに行ったりもした。
そんな時は、一発スリーアウト・チェンジ!の特別ルール適用となる。
レフト側に飛ばすと、昼なお暗い墓地の中にボールは消える。
しかし、ここは誰かに怒られるわけではないからワンアウトとした。
ところが、なかなかボールが見つからず、そのまま日没サスペンドゲームとなることもしばしばだった。
この特別野球場も、畑に蒔かれた農作物の種が芽を出す頃になると、私たちはより慎重にならなければならなかった。
場合によっては、しばらく野球は中止せざるをえないこともあった。
そんな時には、少し遠出をして野球のできそうなところを探すのだ。
白羽の矢が立ったのは、となりのお寺の境内だ。
ここの和尚もそこそこ怖いが、背に腹は変えられない。
追放されるまではやりきった。
野球場探しといえば、秋の田んぼの収穫後は絶好の形をした野球場だった。
何といっても広くて、外野には稲わらを掛けたオダが取り囲んでいる。
地面は刈り取った稲の跡が残り平らではなく、ゴロは容易に処理できず面白くない。
そこで、ゴロを撃ったらアウトというルールを決めて、全ては打ち上げるだけのバッティングにするのだ。
外野のオダを越えて、隣の田んぼまで飛んだらホームランだ。
刈り取った稲の匂いは本当にいいもんだ。
草を刈った後のあの匂いである。
畑脇のホームグランドも同じだが、私たちの野球場にはいつも草の香りが漂っていた。
まさに、あれこそ本当の草野球だったと思う。
今でも、あのいい匂いが漂うとあの頃を思い出す。
-S.S-