2011年3月11日、東日本大震災が起こした津波は大きな被害を各地にもたらしたが、宮城県石巻市立大川小学校で74人の子どもたちと10名の教職員が亡くなった事実はあまりに衝撃的だった。
同じ教員として、もし自分があの時あの現場にいたらどうしただろうか・・・、時々自分に問いかけることがある。
この夏に江戸川区教組は、被災して今は廃校になった現地大川小学校に足を運んだ。
私もOBとして参加した。
現地では、自らも大川小で子どもを亡くした遺族である、元保護者の佐藤敏郎さんに案内されて見学した。
「空白の51分間」とも言われるように、地震発生後に校庭へ避難させられた子どもたちが待たされた時間があった。
その間に様々な出来事があったようだ。
迎えに来たスクールバスを待たせたり、裏山へ逃げようとした子どもが静止させられたり・・・。
ようやく校庭から避難場所へ向かって歩き始めて間もなく・・・。
大きな津波が教員に誘導されて歩いていた子どもたちを飲み込んだ。
とっさの判断で一人で必死に山の方へ逃げた子どもが奇跡的に助かったという。
なんとそこには、同校の教員も一人いた・・・。
まだまだ事実が不明な部分は残されているようだが、例え結果論であっても、子どもたちは普段から行き慣れている「裏山」へ避難すれば助かった命だったのだ。
私たちはその場所へ行って確かめたが、小さな子どもでも容易にたどり着ける場所であったのだ。
そんなことは学校職員なら誰でも分かっていただろう。
それにもかかわらず、51分も待った上に別の場所へ避難誘導したのだ。
分からない!
何故なんだ⁉︎
そこにいた教員一人一人は、自分の頭で考え行動していたのだろうか・・・ ?
教員たちも亡くなってしまった今は聞く術もない。
石巻市は震災後、この大川小を廃校にした上で解体撤去する方針だったようだが、関係者の強い要望で解体は免れた。
関係者と一言で言ったが、実は亡くなった子どもたちの兄弟や先輩の中学生・高校生たちの必死の叫びが功を奏し行政側を動かしたようだ。
ここに行き着くまでには、先述の佐藤さん(当時女川中学校教員だったが、その後退職)たち大人の力も大きかったに違いない。
23人の遺族が宮城県と石巻市に対して損害賠償を求めた裁判では、一審二審とも原告側の勝訴であったが、県と市は最高裁へ上告した。
もう2度とあってはならない事故・事件だが、この事実をさらに検証を深めて将来へ繋げていく必要がある。
危機管理に関する学校や行政の在り方を問うのは当然だが、教職に在る者が最も重要な課題を突きつけられている。
常日頃からいかに在るべきかが・・・。
今日の東京新聞朝刊に掲載されていた記事は、当時12才の6年生だった子どもがタイムカプセルにしたためた作文を紹介している。
10年後の自分へ宛てた手紙である。
この子は普通に生きていたら今、ちょうど二十歳になっている時期なのだ・・・。
-S.S-