教員の中には、児童生徒の「あいさつの仕方」にこだわる人が、かなりいます。
特に「学校内」では、児童生徒の反応が悪い(元気がない?)と何度もやり直しさせる人がいます。
ところで、今年の8月のはじめに教職員が集まる研修会に、組合でビラをまきに行きました。
その際、私は
「おはようございます。研修会お疲れ様です。」
何度も「あいさつ」して、ビラを配りました。
しかし、こちらが何度も「おはようございます。」と言ってるのに、あいさつを返せない(返さない?)人が多かったことといったら…。
ビラの受け取りはともかく、「あいさつ」してる人に「あいさつ」しない人が、よくもいけしゃあしゃあと児童生徒のあいさつ云々がいえるなと思いました。
断っておきますが、私は「あいさつ」を返さない「教職員」をとやかく言う気はありません。
そんなの教職員も人間ですから。
時には「あいさつ」されても返したくない場合もあるでしょう。
そういう「あいさつを返さない、返せないこともある自分」を自覚すれば、児童生徒のあいさつの、いちいちに「めくじらをたてること」がどういうことなか、少しはふりかえられると思います。
「学校」では、多くの教職員が児童生徒に「元気な返事」を、要求します。
私も過去は、子ども達にそういう要求をしました。
でも、例えば、何らかの受賞をして、その賞を受けるときに「元気な返事」ができなくても、まさか「賞」の格が落とされたり、「受賞を取り消される」ということもないでしょう。
意外に、学校の先生と呼ばれる人は、「よい行い(善行はじめ芸術、スポーツ、芸能など)ができる人は、受け答えも立派であるはず。」
とでも、思っているのかな~と思うのです。
「元気な返事」=「人格者」
と言わんばかりに。
世間一般の表彰なんかみてると、案外「返事」なんかいい加減だなと思わされます。でも、それでいいと思います。
例えば、優れた小説をかいた人が、受賞の際、「元気な返事」なんかできなくてもどうでもいいのです。
それで、小説の優れているという価値が下がることなどないのです。
逆にいえば、「元気な返事」をする人が「優れた小説」をかくことのほうが難しいのではないでしょうか?
別に「元気な返事」をする人が「優れた小説」を書いてはいけないわけではありません。
しかし、「優れた小説」を書くのに「元気な返事」が必要かといえば、私は「なくても、全然問題ない。」
と考えます。
子どもの態度の見方の一つに「元気な返事」ができるかを大切にしている教職員は少なからずいます。
でも、「元気な返事」は「元気な返事」のそれ以上でも、それ以下でもないと私は考えます。
-K.O-