NHKで11月28日放送の「支配される教室」を録画でみた。
白百合女子大学教授の内海埼貴子さんが、大学生に小学校4年生役をさせて授業をする、という形である。
全員にじゃんけんをさせ、勝った方に黄色のリボンをつけさせるた後、全員着席してプリントを配る。
そこには、「好きな色」、「なりたい仕事」などの欄があり、それぞれに答えを書き込む。
次に先生役の内海埼さんが、高圧的な調子で「好きな色はなんですか。答えたいお友だちは手を上げて」という。
手を上げた学生が答える。
「はい、青です」
「リボンのあるお友だちだから青、いいですね。はい、次のお友だち」
「はい、黒です。」
「リボンなしなのに、黒ですか。赤にしなさい」
「はい」とプリントの答えを変更する。
次に「将来なりたい職業は?」
「はい、医者です」
「あらリボンなしなのだから、幼稚園の先生にしておきなさい」
「はい」というふうに進む。
リボンの有無が男女別を表している教室で、教師が定めるルールに合わせて『生徒』の学生たちが、問われぬうちに自分で回答を直していく。
異様な雰囲気が醸し出されてくる。
内海埼教授は、大学や高校、市役所の管理職などに対してこの差別体験授業を行っている。
次にみんなに折り紙を折らせ、「校長先生が、リボンありの生徒には飴4つ、なしには飴2つくださるそうです、よかったわね」みな押し黙るだけ。
高校生でこの授業をしたとき、一人のリボンなしの生徒が二つは嫌だという。
「どうしたらいいかしら」
「みんな3つにする」
「校長先生に言いに行く」という意見が出るが、
『先生』が「どう?校長先生に言いに行く」
リボンありの生徒が「いやだ」と言い、校長先生に言いに行くという意見は他の『生徒』の沈黙によって黙らされる。
茨木県の役所の管理職たちのクラスでは、みな曖昧な笑いを浮かべている。
楽しいはずはないのに。
だれも抵抗しないまま、高圧的な『教師』の価値観に迎合してしまう。
NHKの番組紹介では
— 先生役の内海崎は“教室の支配者”を演じ、生徒に“差別”を体験させていく。“ある属性”によって生徒を2つのグループに分け、その属性に応じた「あるべき姿」を押しつける。
自分の意志を無視され、「あるべき姿」を強要される生徒たち。
教室が異様な空気に包まれる中、次第に生徒たちは意外な行動を取り始める。
「差別体験授業」が浮き彫りにする心の変化とは?
差別されることで気づく、無意識の差別や社会の刷り込みとは? ― とある。
私にも生活のなかでいくつもこのような理不尽さやいらだたしさの経験がある。
これは私と娘が別々にみた。
娘も見たというので感想を聞いたが、もといじめ経験者の娘は「昔を思い出して嫌だった。話したくもない」という。
それはわかるけれど、こういう場面に出会ったら、私なら、理不尽に抗議する。
差別は許さない。
いじめはこういう場面構造から生まれるけれど、その場に一人、二人、三人、四人、これはいじめ、差別だと見抜いて反対する人がいたら、止めることができる。
ただいつもこのような事態はさりげなく、自然に進むから、見抜く力をつけることが大切だと思う。
そして、はっきり差別されている人の側に立ったり、反対したりできないとしても、笑いに同調してはいけない。
反対の意思表示の怒りの表情を作るべきだ。
なんだかおかしいけれど、何がおかしいかわからないということはあるよね。
セクハラがそうだった。
私の若い頃は「女の子が数学が好きなんて、嫁の貰い手がなくなるぞ」と言われた。
「この場を盛り上げるのに女の子が来てうれしい」とか、お世辞のつもりで言われた。
気分が悪いけれど、笑っているしかなかった。
怒るのは、大人げない、可愛げのないことだったから。
フェミニズム運動のなかで「セクシャルハラスメント」ということばができた。
言葉で定義するのは、ほんとうに大切なことだ。
今まで名づけられなかった不当感や怒り、いらだちがすっきりわかった。
それは差別、セクハラだったんだ。
「女性差別」も同じだ。
また教室の中で大勢がひとりの生徒を責めるのも差別だ。
あんたが今は、はっきりそれは差別だ、と言えなくてもいい。
でも笑って同調しないで、怒っていてほしい。
大人同士でも、ときどき、場の雰囲気で、弱い人につらく当たるということが起きる。
そういうときに私は断固反対する。
一人で反対すると孤立することもあるけれど。
二人いたら、場の雰囲気を変えることができる。
そのようにして、社会の中で、生活の中から民主主義が実現していくんだと思う。
どんな時でも、私は見ないふりはしない。
差別やいじめの傍観者はいちばん許せない。
それはね、自分の子どものことを思うからでもある。
大人になってしまつたあんたにはまにあわないけれど。
ま、江戸の仇を長崎で、ということかもしれないな。
-K.M-