人生を癒す 百歳の禅語を読んで 3
*事実の奥にある真理を見据える。
「柳緑花紅」(やなぎはみどり、はなくれない)
こちらから、学ぼう、学ぼう、教えてもらおう、教えてもらおう、と思って謙虚に、謙虚
になると自然現象がみんな寄ってたかって、何かを教えてくれます。自然は尊いものです。
*目に見える事実、その奥に潜む真実。
禅語の一番の標準になる話「柳緑花紅真面目」(やなぎはみどりはなくれない、しんめんも
く)真面目とは「本来の趣旨、本旨」という意味で使っています。
「柳緑花紅」と見えるのは、外形、外から見るだけのことです。その目に見える現象の奥
に、深いものがなければならない--------これが禅の見方になるのです。そして、その現象
の奥にある深いものと言うのが「真面目」なのです。
*無常にはプラスとマイナスの両面がある。
花が咲いて美しいというのはどんな真理を表しているのか。その第一番は「無常」と言う
こと。無常の真理を象徴しているのです。すべてのものは移り変わっていく、ということ
です。
無常と言うと、厭世的な気持になりがちですが、マイナスの面だけを見るのではなくて、
プラスの面も見なくてはならない。「世の中は三日見ぬ間の桜かな」。この句は「三日見な
い間に、もうこんなに桜が咲いた」と「チョッと見ないうちに、もう桜が散ってしまった」
という二つの意味にとれます。無常というのは「散ってしまった」という面にばかりとら
われがちですが「三日見ぬ間に桜の蕾がもうこんなに大きくなってきた」というふうに積
極的に、プラス面も見なければいけないのです。すべてのものをプラス、マイナス両面か
ら一つにまとめて見ることです。これが一番大切なことです。
桜の花が咲いているというのも、プラスとマイナスの二つの無常観を表しているのです。
「真面目」とは本旨、本来の趣旨ですから、無常ということが真面目なのです。
「柳緑花紅」だけれども、そこに真面目としてプラス、マイナスの無常観が表わしている
のです。
*すべてのものは、お蔭によって存在する。
「柳緑花紅」のもう一つの真理は「無我」です。「無我」とは「物が存在するのは、それだ
けでは存在できない、必ず他のかかわりがあって存在するのだ」ということ。
これを「無我」と言います。
「すべてのものは無常であり、そしてすべてのものは無我である」――これが仏教の世界
観です。世の中には永遠に変わらないものなど何一つない、また、それだけで他と無関係
に存在するものは何もない」ということです。
裏返して言うと、永遠に変わらないもいの、そして、それだけで他との係わり合いがなし
で存在ができるものを「実体」と言います。仏教での世界では、「そういう実体のなるもの
はない」と実体を否定するのです。
*有り難う
世の中には「実体」というものは何一つありません。柳でも花でも、遅い早いはあるけれ
ども、すべては変わっていきます。
つまり、刻として変わっていくものがここにあるということ、これは滅多にないので「稀
有」の事実です。稀に有る。そういう稀な事だから「有り難し」と言うことになります。
このように「有り難し」とは、滅多にない、有ることがむしろ奇跡であるということ。
そこから感謝の気持を意味するようになりました。だから「有り難し」という言葉の意味
を本当に分かるということは、無常が分かるということです。
何か禅の言葉は難しいように感じますが、私のような凡人でも読み返すと何となく分かる
ような気がしますね。