人生を癒す 百歳の禅語を読んで -4-
*「お蔭様」
無我、すべてのものはお互いにかかわりあっている。
碁盤には目というものがある。その目を一つだけ取ってくれと言っても、取り出すことは
出来ない。あの目は、隣接する縁(ふち)を両方のものが共用して初めて存在できるから
です。網の目も同じです。それは孤立して存在する事は出来ない。持ちつ持たれつ、隣の
目との係わりによって生じるからです。日本人はこれを「お蔭様」と受け取った。
お蔭によって存在をする。本当に「お蔭様」と言う意味が分かる事は、無我が分かるとい
うことになります。
*「当り前」の中に真理を見据える
青々とした柳も、あでやかな花も、刻々と移り変わってゆく。無常の現象です。
柳の芽が青く育ち花が紅くなるには、日光、水、空気、人間の栽培や肥料など、無数の
きっかけや条件(総じて縁と言う)の係わりが必要です。この無数の係わり合いの事実を
無我と言います。そういう無常と無我が「真面目」、つまり真理である。
目に見える事実の底に潜んでいる無常や無我が真理なのです。その真理を見つめ、見据え
る事が「真面目」を知ることです。
だから目に見える現象は、すべて目に見えない真理の表れであるということです。
「柳緑花紅」とは平凡な事実。その「当り前」の事実の中に真理を見据えることができる
と、当り前の事実がそのまま真理の姿(相)だということになって、事実と真理とが一つ
になって理解できるということです。
*アングルを変えると発見がある
「あいつは役に立たない、あいつは駄目なやつ」と言うけれども、チョッと見る角度を変
えてみると、自分の持ってない優れた才能を持っていることを発見する事があります。
*露堂々、明歴々(ろどうどう、めいれきれき)
「露」は表れると訓み「歴々」は「ありありと」という意味です。
明らかにありありと見せてくれているという意味です。「柳緑花紅」に「露堂々明歴々」
と真理が露われている--------と。
そういう一つの宗教的受け止め方をして、今度は人生論として考えてみると。無常から生
きている命の尊さが分かり、そして、無我、お蔭様から感謝が表れてくるのです。
そこから「少しでも人のためにしておこう、何でもいいからひとのためにしていこう」と
言う気持、生きがいが生まれてくるわけです。
花は人が見ていても見てなくても咲いている。そういう仏教思想を学ぶだけでなく、それ
を人生論として受け止めていくときには、自分だけでなくて人様、他人の幸せを願ってい
かなければいけないということなのです。
「あれを見よ、深山の桜咲きにけり、真心つくせ、人知らずとも」武者小路実篤。
「人知るもよし、人知らざるもよし、我は咲くなり」
山の中に咲いた桜の花のように、誰が見てくれようと見てくれなかろうと真っ当な生き方
をしよう。人が見ていようが見てまいと、きれいに咲く、裏表のある生活はやめよう。
生活が苦しくても間違った事をしないようにしよう。という教えなのです。
*自然の中から真理を汲み取る
「無常説法」------自然のたたずまいの中から禅の意志を汲み取る。
感情を持っていない山、川、草花などもみな、真理を説いているのです。
こちらが学ぼう、学ぼう、教えてもらおう教えてもらおうと思って謙虚に、謙虚になると、
自然現象がみんな寄ってたかって、私達に何かを教えてくれます。自然は尊い先生なので
す。 と説いています。やはり人間も自然界の生き物ですからね。