いまなぜ二宮尊徳か? 経済学者で哲学者の尊徳
尊徳が教えた人の道、経済自立の道。
尊徳が生きた幕末は、多くの藩の財政が破綻し、過酷な年貢米取立てに喘ぐ農民たちが
貧困と飢餓で勤労意欲を失っていた時代でした。(何か現在の世の中のようですね)
そんな中で二宮尊徳は、その生涯に六百二十か町村の財政再建を成功させ、多くの農民
たちを救い、藩の財政建て直しに指導力を発揮して貢献したと言われます。
(現在の世の中にもこんな人が欲しいですね、今の政治家や経済学者の中にはいないね)
尊徳の再建事業は、まず人の心に種を蒔き、人の道を教え諭すことから始めました。
農民の心に道徳力を高めながら経済再建を果したのです。そのために尊徳が説いた実践哲
学は、二百年の時を超えて現代にも求められるものなのです。(実感 実感)
幼名を金次郎と呼ばれた尊徳は一七八七年七月、二町三反(一反は三百坪、一町は十反)
の田畑を持つ栢山(かやま)の善人といわれた父母のもとに生まれ、幸せな幼児期を過
しますが、近くを流れる酒匂川が洪水で決壊、四歳の時に父の田畑に大半が土砂に流され
一家の不幸が始まります。
戦前の学校の校庭には、どこでも見られた金次郎像は戦後の教師らの反対で倒されて無く
なりましたが、あの柴木を背負い、寸暇を惜しんで読書しながら山道を歩く少年金次郎の
姿は、貧しくても親を助け、勤勉努力すれば必ず立派な人になれるのだと、無言の励まし
を子供達に与えていたのです。(現在の若い人は知らないでしょうね)
百姓に学問は不要と言われた時代に尊徳は、学問は人生の道を開き、自立と経済の役に立
つと信じていました。その証を立てる教えの実践こそ尊いのだと考えていました。
田畑が土砂に流された後の無理から、父は病に倒れ、金次郎の孝養も空しく貧窮の中で
病死。その二年後には母も亡くなりました。残された幼い二人の弟は母の里のあずけられ
十六歳の金次郎は父方の伯父万兵衛方に身を寄せて、ついに一家は離散してしまいます。
金次郎はそれにめげる事もなく、昼は伯父の仕事の手伝い、夜遅くまで父が残した儒教や
経済学の書物を読み、伯父に灯油が減ると叱言を言われると、友人から一握りの菜種を
借りて荒地を耕し種を蒔き、一年後には百五十倍の菜種を収穫。それを隣村で灯油に替え
て、思う存分学問を続けることが出来たのです。(凄い努力家でしたね、見習いましょう)
また農家の捨て苗を拾って空き地に植え付け、秋には一俵の稲籾を取りました。こうした
体験から「積小為大」(せきしょういだい)の法則を発見し、自立への強い信念を抱くよう
になったのです。
十九歳で伯父の家を出て生家の廃屋を修理し独立を果した尊徳は、母の死後残された六反
歩を元に徐々に田畑を買い戻し、五年後に一町五反、三十一歳になった頃には父をも凌ぐ
三町八反の田畑を持つ立派な地主になっていたのです。(凄い努力ですね)
その実績を買われた尊徳は、家老服部家の財政立て直しを行い、藩主大久保忠真公の依
頼で桜町(今の栃木県芳賀郡)の廃村復興を手掛け、役人らの妨害に遭いながらも十年後
に完成、「野州聖人(やしゅうせいじん)」と称えられます。その後、福島の相馬藩で藩財政
を建て直し、幕府の求めで日光領の財政立て直しなども行い、七十年の生涯を終えました。
(私語)
こんな実行力のある国会議員や経済学者が今の世に欲しいと思いませんか?
栃木県芳賀町や福島の相馬のことは初めて知りました。今の芳賀町は財政豊かで中学校
まで子供の医療費は無料の町です。こんな過去があったなどとは知りませんでした。
現町民も知らない人が多いと思いますよ。
文章の()内は私の言葉です。