龐統は届いた書簡を前に、唸ることもできなかった。
それというのも、返事と言う返事が、予想よりもずっと悪いものばかりだったからだ。
中には、はっきりと、孔明に誘われて劉豫洲《りゅうよしゅう》(劉備)に味方するつもりなので、そちらには仕えられないと書いてあるものすらあった。
もっと突っ込んだ内容のものになると、
『孫討虜将軍《とうりょしょうぐん》(孫権)は揚州の英雄であるが、荊州とは何のかかわりもない人物で、漢王朝との血のつながりもない。
その将軍に仕えろと言うが、かれに仕えるのと曹操に仕えるのと、どう違うというのか。
野望をむき出しにして荊州を狙う人物が、曹操から孫将軍に代わるだけなのではないか。
それならば、いくらか大義名分もあり、漢王朝につながる劉豫洲のほうがいい……』
と書いてある。
龐統は、人々の意識の中に、まだ根強い漢王朝への期待が存在することを痛感せずにいられなかった。
漢王朝がなにをしてくれたというのだ、と思うのだが、人々は、蹴られても踏みにじられても、漢王朝を心のよりどころにして慕っているのである。
高祖からはじまって、王莽《おうもう》の時代という中断はあったにせよ、四百年ちかいあいだ、民衆は漢王朝を頭に戴いてきた。
その重みか。
人々は、群雄のうちだれが天下を取るにせよ、漢王朝を復興させ、継承する人物がよいと思っているようである。
龐統に届いた荊州人士たちの手紙には、孔明の影響らしく、劉豫洲という文字があちこちに書かれていた。
劉豫洲……その出自も貴いとはいいがたい、本来なら漢王朝の出身だと標ぼうすらできなかったであろう人物。
そのかれが、人々の期待の星になっているというのは、龐統からすればじつに奇妙なことだった。
『臥龍……孔明を軍師に迎えたことで、より求心力を増したのだとしたら』
そう思うと、龐統もなんだかおもしろくない。
孔明とは姻戚同士で、年も近く、曹操嫌いなところまでは共通している。
だが、選んだ主君は別だった。
孔明は三顧の礼までされて、劉備に丁重に迎えられた。
龐統はと言うと、孫権ではなく周瑜のもとで功曹としてはたらいている。
功曹は、いわば人事を司る局長的存在で、地元の有力者の子弟がつとめた。
周瑜は龐統に、荊州と揚州の橋渡しを期待しているのだろう。
その期待を早くも裏切ってしまったかたちだ。
孔明の仮家に、鶉火《じゅんか》が偵察に行って帰って来たときから、嫌な予感はしていた。
鶉火は、あやうく主騎の趙雲に捕まりそうになったという。
そんな危険をおかしてまで、鶉火が持って帰って来たのは、孔明のところに荊州人士から、多くの賛同の手紙があつまっている、ということだった。
陸口城の一室で、窓からさんさんと太陽の光が入り込んでいる。
その光を背に受けて、周瑜は、いま、荊州じゅうから返って来た手紙をひとつひとつ読んでいた。
美しい眉をぴくりとも動かさない。
ときどき手紙を手に、ほう、とか、そうか、とか相槌を打つ。
揚州では得られない知見が書かれているのが、新鮮なのだろう。
周瑜の前に、卓をはさんでかしこまっている龐統は、肩身が狭かった。
それというのも、けっきょく、孔明に手紙で競り負けたからだ。
柴桑に同盟を持ち掛けに来た孔明が、その日のうちに矢継ぎ早に荊州の曹操についていない骨のある男たちへ片っ端から手紙を送ることは予想できなかった。
その行動の速さには舌を巻くほかない。
『あいつは、むかしから、行動力はずば抜けていたからなあ』
と、龐統は孔明の姿を思い出しつつ、小さくため息をつく。
臥龍と鳳雛という号をそれぞれもらって以来、比較されることが増えた。
号を得たことは嬉しいことだと無邪気に喜んでいたのに、そのこと自体が、だんだん呪いのようになってきている。
孔明と違い、龐統は弁舌がうまくなく、育ちが恵まれていたため、おっとりしているところがあった。
今回は、命がけで揚州にやってきた孔明に、うまく出し抜かれたかたちである。
つづく
それというのも、返事と言う返事が、予想よりもずっと悪いものばかりだったからだ。
中には、はっきりと、孔明に誘われて劉豫洲《りゅうよしゅう》(劉備)に味方するつもりなので、そちらには仕えられないと書いてあるものすらあった。
もっと突っ込んだ内容のものになると、
『孫討虜将軍《とうりょしょうぐん》(孫権)は揚州の英雄であるが、荊州とは何のかかわりもない人物で、漢王朝との血のつながりもない。
その将軍に仕えろと言うが、かれに仕えるのと曹操に仕えるのと、どう違うというのか。
野望をむき出しにして荊州を狙う人物が、曹操から孫将軍に代わるだけなのではないか。
それならば、いくらか大義名分もあり、漢王朝につながる劉豫洲のほうがいい……』
と書いてある。
龐統は、人々の意識の中に、まだ根強い漢王朝への期待が存在することを痛感せずにいられなかった。
漢王朝がなにをしてくれたというのだ、と思うのだが、人々は、蹴られても踏みにじられても、漢王朝を心のよりどころにして慕っているのである。
高祖からはじまって、王莽《おうもう》の時代という中断はあったにせよ、四百年ちかいあいだ、民衆は漢王朝を頭に戴いてきた。
その重みか。
人々は、群雄のうちだれが天下を取るにせよ、漢王朝を復興させ、継承する人物がよいと思っているようである。
龐統に届いた荊州人士たちの手紙には、孔明の影響らしく、劉豫洲という文字があちこちに書かれていた。
劉豫洲……その出自も貴いとはいいがたい、本来なら漢王朝の出身だと標ぼうすらできなかったであろう人物。
そのかれが、人々の期待の星になっているというのは、龐統からすればじつに奇妙なことだった。
『臥龍……孔明を軍師に迎えたことで、より求心力を増したのだとしたら』
そう思うと、龐統もなんだかおもしろくない。
孔明とは姻戚同士で、年も近く、曹操嫌いなところまでは共通している。
だが、選んだ主君は別だった。
孔明は三顧の礼までされて、劉備に丁重に迎えられた。
龐統はと言うと、孫権ではなく周瑜のもとで功曹としてはたらいている。
功曹は、いわば人事を司る局長的存在で、地元の有力者の子弟がつとめた。
周瑜は龐統に、荊州と揚州の橋渡しを期待しているのだろう。
その期待を早くも裏切ってしまったかたちだ。
孔明の仮家に、鶉火《じゅんか》が偵察に行って帰って来たときから、嫌な予感はしていた。
鶉火は、あやうく主騎の趙雲に捕まりそうになったという。
そんな危険をおかしてまで、鶉火が持って帰って来たのは、孔明のところに荊州人士から、多くの賛同の手紙があつまっている、ということだった。
陸口城の一室で、窓からさんさんと太陽の光が入り込んでいる。
その光を背に受けて、周瑜は、いま、荊州じゅうから返って来た手紙をひとつひとつ読んでいた。
美しい眉をぴくりとも動かさない。
ときどき手紙を手に、ほう、とか、そうか、とか相槌を打つ。
揚州では得られない知見が書かれているのが、新鮮なのだろう。
周瑜の前に、卓をはさんでかしこまっている龐統は、肩身が狭かった。
それというのも、けっきょく、孔明に手紙で競り負けたからだ。
柴桑に同盟を持ち掛けに来た孔明が、その日のうちに矢継ぎ早に荊州の曹操についていない骨のある男たちへ片っ端から手紙を送ることは予想できなかった。
その行動の速さには舌を巻くほかない。
『あいつは、むかしから、行動力はずば抜けていたからなあ』
と、龐統は孔明の姿を思い出しつつ、小さくため息をつく。
臥龍と鳳雛という号をそれぞれもらって以来、比較されることが増えた。
号を得たことは嬉しいことだと無邪気に喜んでいたのに、そのこと自体が、だんだん呪いのようになってきている。
孔明と違い、龐統は弁舌がうまくなく、育ちが恵まれていたため、おっとりしているところがあった。
今回は、命がけで揚州にやってきた孔明に、うまく出し抜かれたかたちである。
つづく