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翌日、周瑜はめずらしく苛立ちを隠さない様子で、|陸口城《りくこうじょう》のおのれの執務室にいた。
呼び出された龐統は直感で、これは孔明がらみだなと気づく。
このところ、周瑜を苛立たせるものは、曹操ではなく孔明である。
それが良いのか悪いのか、といえば、悪いといえるだろう。
緒戦に勝ちすぎたせいで、周瑜は曹操よりも目先の孔明が気になってしまっているのだ。
『気持ちはわかるが』
孔明(はなはだ明るい)とはよく言ったもので、孔明はなにかと目立つのだ。
誰に対しても圧倒的な存在感を見せる周瑜からしても、孔明は目障りなのだろう。
あるいは、なにか第六感のようなもので、将来的に孔明が邪魔になるかもしれないと考えているのか。
『それはわしの考えすぎかな』
とはいえ、仮に周瑜率いる水軍がほぼ単独で曹操に勝った場合、荊州をめぐる戦いが劉備軍とのあいだに起こるのは目に見えている。
孔明の手腕は、孫権との同盟を勝ち得たことや、荊州人士のこころをいち早く掴んでいることなどから、すでに明らか。
孔明を放置しておいて、自分に得はないと思っているのかもしれない。
それが証拠に、周瑜の手前にある文机のうえには、孔明の手紙が乗っている。
龐統もよく見覚えのある、孔明の柔和な風貌に似合わぬ、勇壮な、跳ねる龍のような文字だ。
「孔明どのが、十日どころか、三日で矢を用意すると言ってきた」
と、周瑜は言う。
周瑜はおのれの感情を隠そうとしているが、みごとに失敗して、眉間にしわが寄っていた。
龐統もまた、孔明の大胆さにおどろいていた。
「十日を三日に短縮するとは、命知らずですな」
龐統が感想をそのまま述べると、周瑜は龐統が孔明であるかのように、とげのある目線を寄越してくる。
「もし三日以内に矢を用意できなかったら、命を取られても文句はないとまで言ってきている」
ああ、それが苛立ちのタネか、と龐統は合点した。
孔明は周瑜の思惑を正確につかんでいる。
そのうえで、あえて余裕をみせて、周瑜をからかいさえしているのだ。
仮に孔明が三万本の矢を用意できなくても、周瑜は孔明を殺したりはしなかったろうと、龐統は推理している。
孔明は劉備の大事な軍師なのだ。
劉備を怒らせ、下手に刺激すれば、曹操どころか、劉備すら陸口を襲ってきかねない。
そんな失策をする周瑜ではないが、しかし、人質にするために孔明らを捕えるくらいはしたはずだ。
そして、そんな周瑜の心の内を、孔明は知っているのか、知らないのか……
「士元、貴殿は孔明の親戚だろう。なにゆえ孔明が三日で矢を用意できると言い出したか、予想がつくか?」
「逃げようとしているのでは?」
「劉備の元へか」
「いえ、曹操のもとへ」
「それはなかろう、かれは徐州の人間だぞ」
「徐州の人間でも、窮鳥《きゅうちょう》のたとえではありませぬが、追い詰められれば、猟師の胸に飛び込むでしょう」
周瑜は、龐統のことばを吟味して、それから首を振った。
「あり得ぬとは思うが、しかし、注意したほうがよかろうな」
推論を否定されてしまった。
周瑜は独り言をつぶやくように、つづける。
「孔明を子敬(魯粛)に見張らせるか……かれが逆に人質にされぬよう、兵士もつけたほうがいいだろうな」
それを聞いて、龐統はだんだん不安になって来た。
周瑜が、孔明を呼び捨てにしはじめたのもそうだし、孔明の存在に捕らわれ過ぎつつあるのも、気にかかった。
『孔明はたしかに目立つやつだし、いまのところ上手く立ち回ってはいるが、けっきょく敗軍の家来にすぎぬ。
ともかく対岸の大敵を気にしていればよいものを、都督は、なにゆえこうも孔明を気にしておられるのだろうか』
孔明が気に入らないという感情自体は、龐統にも理解できる。
だが、過度に気にする理由が、いまひとつわからない。
つづく
翌日、周瑜はめずらしく苛立ちを隠さない様子で、|陸口城《りくこうじょう》のおのれの執務室にいた。
呼び出された龐統は直感で、これは孔明がらみだなと気づく。
このところ、周瑜を苛立たせるものは、曹操ではなく孔明である。
それが良いのか悪いのか、といえば、悪いといえるだろう。
緒戦に勝ちすぎたせいで、周瑜は曹操よりも目先の孔明が気になってしまっているのだ。
『気持ちはわかるが』
孔明(はなはだ明るい)とはよく言ったもので、孔明はなにかと目立つのだ。
誰に対しても圧倒的な存在感を見せる周瑜からしても、孔明は目障りなのだろう。
あるいは、なにか第六感のようなもので、将来的に孔明が邪魔になるかもしれないと考えているのか。
『それはわしの考えすぎかな』
とはいえ、仮に周瑜率いる水軍がほぼ単独で曹操に勝った場合、荊州をめぐる戦いが劉備軍とのあいだに起こるのは目に見えている。
孔明の手腕は、孫権との同盟を勝ち得たことや、荊州人士のこころをいち早く掴んでいることなどから、すでに明らか。
孔明を放置しておいて、自分に得はないと思っているのかもしれない。
それが証拠に、周瑜の手前にある文机のうえには、孔明の手紙が乗っている。
龐統もよく見覚えのある、孔明の柔和な風貌に似合わぬ、勇壮な、跳ねる龍のような文字だ。
「孔明どのが、十日どころか、三日で矢を用意すると言ってきた」
と、周瑜は言う。
周瑜はおのれの感情を隠そうとしているが、みごとに失敗して、眉間にしわが寄っていた。
龐統もまた、孔明の大胆さにおどろいていた。
「十日を三日に短縮するとは、命知らずですな」
龐統が感想をそのまま述べると、周瑜は龐統が孔明であるかのように、とげのある目線を寄越してくる。
「もし三日以内に矢を用意できなかったら、命を取られても文句はないとまで言ってきている」
ああ、それが苛立ちのタネか、と龐統は合点した。
孔明は周瑜の思惑を正確につかんでいる。
そのうえで、あえて余裕をみせて、周瑜をからかいさえしているのだ。
仮に孔明が三万本の矢を用意できなくても、周瑜は孔明を殺したりはしなかったろうと、龐統は推理している。
孔明は劉備の大事な軍師なのだ。
劉備を怒らせ、下手に刺激すれば、曹操どころか、劉備すら陸口を襲ってきかねない。
そんな失策をする周瑜ではないが、しかし、人質にするために孔明らを捕えるくらいはしたはずだ。
そして、そんな周瑜の心の内を、孔明は知っているのか、知らないのか……
「士元、貴殿は孔明の親戚だろう。なにゆえ孔明が三日で矢を用意できると言い出したか、予想がつくか?」
「逃げようとしているのでは?」
「劉備の元へか」
「いえ、曹操のもとへ」
「それはなかろう、かれは徐州の人間だぞ」
「徐州の人間でも、窮鳥《きゅうちょう》のたとえではありませぬが、追い詰められれば、猟師の胸に飛び込むでしょう」
周瑜は、龐統のことばを吟味して、それから首を振った。
「あり得ぬとは思うが、しかし、注意したほうがよかろうな」
推論を否定されてしまった。
周瑜は独り言をつぶやくように、つづける。
「孔明を子敬(魯粛)に見張らせるか……かれが逆に人質にされぬよう、兵士もつけたほうがいいだろうな」
それを聞いて、龐統はだんだん不安になって来た。
周瑜が、孔明を呼び捨てにしはじめたのもそうだし、孔明の存在に捕らわれ過ぎつつあるのも、気にかかった。
『孔明はたしかに目立つやつだし、いまのところ上手く立ち回ってはいるが、けっきょく敗軍の家来にすぎぬ。
ともかく対岸の大敵を気にしていればよいものを、都督は、なにゆえこうも孔明を気にしておられるのだろうか』
孔明が気に入らないという感情自体は、龐統にも理解できる。
だが、過度に気にする理由が、いまひとつわからない。
つづく