※
張郃《ちょうこう》は場が解散すると、すぐさま立ち上がり、徐庶を探した。
曹仁の周りには人の輪が出来ていて、それぞれねぎらいの言葉をかけあっている。
張遼は、そこからすこし離れたところで、やれやれといったふうに、息をついていた。
一方で、荀攸《じゅんゆう》をはじめとする文官たちは、襄陽《じょうよう》へ入るまでの段取りを決めるために忙しくうごきだしている。
だが、程昱《ていいく》と徐庶だけは、城の柱のかげで、なにやら話し込んでいた。
いや、話し込んでいるというような対等なものではない。
程昱は、徐庶にむかって、なにやら小言と嫌みを言っているようだった。
そこに割り込むのはさすがに気が引けたので、しばらく、張郃は、自身も陰にかくれて、程昱が行ってしまうのを待っていた。
ほどなく、程昱が、
「まったく、いつまでも困ったものだ」
とぶつぶつ言いながら去っていくのが見えた。
柱の陰に残された徐庶のほうは、程昱の小言を受けても、悔しがるでもなく、悲しがるでもなく、ただのっぺりとした、表情のない顔をして、その場に立っていた。
近くで見れば見るほどに、存在感がなく、生気というものも感じられない。
こいつ、大丈夫かな、と張郃は戸惑う。
うわさでは、曹操に降ることに抵抗したために、見せしめとして母親を暗殺されたとかいう。
張郃としては、それが真実だとしても、もう曹操の家臣の列に加わらなければならない以上は、覚悟を決めてしまえばいいのに、と思う。
自分がさっぱりした気性なので、めそめそした感傷的な男は苦手なのである。
「徐元直《じょげんちょく》どのか、おれのことはわかるか」
乱暴なまでに大きな声でたずねると、徐庶はどんよりとした目つきのまま、ゆっくりと顔を向けてきた。
「わかります。平狄将軍《へいてきしょうぐん》の張儁乂《ちょうしゅんがい》どの」
間近で見る徐庶は、ほかの育ちの良さが売りの文官たちとは、どこか雰囲気もちがっていた。
元気なときには、さぞかしさばけた男なのだろうなと、張郃は感じ取る。
いまは、暗く自分の殻に閉じこもってしまっているようだが。
とはいえ、徐庶の気持ちには構っていられない。
聞きたいことは山ほどあった。
「自己紹介の手間は省けるな。率直にお尋ねしたい。
元直どのは、劉備の軍師であったのだろう?
なれば、劉備のことにはくわしかろう。
単刀直入に聞くが、趙子龍という男をご存じないか」
表情のなかったその白い顔が、ようやくわずかに揺れた。
徐庶の眉がぴくりと動く。
懐かしい人物の名を聞いて喜んでいるのではない。
警戒しているのだ。
「なぜお尋ねになりますのか」
慎重な男だなと思いつつ、張郃は唇を舐めてから、ふたたび尋ねる。
「新野城《しんやじょう》でやつと戦った。この切り傷は、すべてやつにつけられたものだ」
と、張郃は自身のからだのあちこちにある、手当てのすんでいる切り傷を示した。
「あれほどの男が天下に名を知られていないとはおどろいた。
常山真定《じょうざんしんてい》の出身で、劉備の主騎ということだけは知っている。
それ以外で、貴殿の知っていることを教えてほしい」
それは、と徐庶が口をひらこうとする。
だが、いくらか迷っているようで、なかなか言葉が出てこない。
張郃が焦れていると、場に似合わぬ明るい声が割って入って来た。
「将軍がおっしゃるとおり、趙子龍は冀州の常山真定のうまれの男です。
かつて名をはせた趙国の王族の末裔とうわさされておりますが、果たしてどうでしょうな。
もとは公孫瓚《こうそんさん》の部下だった男ですが、劉備の家臣となり、いまはその主騎となっているのです」
おどろいて振り返ると、品の良い笑顔の、新顔の文官が立っていた。
零陵《れいりょう》の劉巴《りゅうは》、あざなを子初《ししょ》といったか。
年のころは張郃と変わらぬくらいで、高級そうな香油でまとめられたつやつやの黒髪が目を引く。
「失礼、お二方の会話が聞こえてきたものですから」
嫌みのない所作で劉巴は礼を取って、言う。
「いや、情報をもらえるのなら、ありがたい。趙子龍のことを、もっと詳しく教えてくれ」
「諸葛孔明どのの主騎も兼ねているときいております。
いわば、劉備と孔明どの、両方の用心棒といったところでしょうか」
劉備は呼び捨てで、孔明は「孔明どの」というところに違和感を感じていると、それを素早く察したのか、劉巴はころころ笑いながら言う。
「孔明どのとは文通仲間でしてな。
それに、かれが劉備の軍師になる以前、荊州の豪族たちのもめ事を一緒に解決したことがあったのです」
「ほう、すると、貴殿は諸葛孔明にもくわしいのか。どういう人物なのであろう」
「さきほど元直どのは、孔明どのを月と表現しましたが、わたしからすれば、太陽のような明るい方ですな。
はなはだ明るい……それを意味する『孔明』のあざなは、伊達ではありませぬ。
それに、ほとばしるような才気の持ち主です」
「なるほど、そうなると、丞相が興味を持たれるのも無理はない」
張郃が感心すると、なぜだか劉巴は、そうでしょうねえ、と謎めいた相槌を打った。
「ところで趙子龍だが、公孫瓚のところでは名前が通らなかったようだが、なぜだろう」
「くわしいことは存じ上げませぬ。
ただ、公孫瓚は晩年には暗君に成り果てましたから、かれは早くに見切りをつけて、出て行ったそうです。
それがゆえに活躍の場を与えられず、名も高められなかったのではないでしょうか」
「そうか。そういうことかもな」
いま思い返すと、趙子龍は、容姿もかなり整った男だった。
観相学の観点からしても、好ましい男である。
劉備が主騎として連れまわしたくなる気持ちがわかる。
「なにせ、荊州はしばらく平和でしたから、趙子龍がどれほどの活躍をしたかは、わたしの耳にも聞こえてきませんでした。
しかし、劉備の陣中でも、一、二を争う槍の達人と聞いております」
「ふむ、たしかに槍の扱いには長《た》けていたな」
「将軍、趙子龍にふたたびまみえたら、どうなされるおつもりですか」
劉巴の問いに、張郃はきっぱり答えた。
「斬る。しかし、もし恭順の態度をとるのであれば、丞相のため、その御前に引っ立てるつもりだ」
「明快ですな。心強い」
そう言って、劉巴は笑う。
つられて張郃もいっしょに笑ったが、途中で気づいた。
この劉巴、顔は笑っているが、目が笑っていない。
気味が悪いやつだ。
腹に何か隠しているのかもしれない。
こういうやつは、腹にとげどころか、剣を隠しているものだ。
あまりお近づきにならないほうがよいなと判断し、張郃は挨拶もそこそこに、その場を離れた。
取り残されていたかたちの徐庶も、無言のまま、その場を離れていった。
つづく
張郃《ちょうこう》は場が解散すると、すぐさま立ち上がり、徐庶を探した。
曹仁の周りには人の輪が出来ていて、それぞれねぎらいの言葉をかけあっている。
張遼は、そこからすこし離れたところで、やれやれといったふうに、息をついていた。
一方で、荀攸《じゅんゆう》をはじめとする文官たちは、襄陽《じょうよう》へ入るまでの段取りを決めるために忙しくうごきだしている。
だが、程昱《ていいく》と徐庶だけは、城の柱のかげで、なにやら話し込んでいた。
いや、話し込んでいるというような対等なものではない。
程昱は、徐庶にむかって、なにやら小言と嫌みを言っているようだった。
そこに割り込むのはさすがに気が引けたので、しばらく、張郃は、自身も陰にかくれて、程昱が行ってしまうのを待っていた。
ほどなく、程昱が、
「まったく、いつまでも困ったものだ」
とぶつぶつ言いながら去っていくのが見えた。
柱の陰に残された徐庶のほうは、程昱の小言を受けても、悔しがるでもなく、悲しがるでもなく、ただのっぺりとした、表情のない顔をして、その場に立っていた。
近くで見れば見るほどに、存在感がなく、生気というものも感じられない。
こいつ、大丈夫かな、と張郃は戸惑う。
うわさでは、曹操に降ることに抵抗したために、見せしめとして母親を暗殺されたとかいう。
張郃としては、それが真実だとしても、もう曹操の家臣の列に加わらなければならない以上は、覚悟を決めてしまえばいいのに、と思う。
自分がさっぱりした気性なので、めそめそした感傷的な男は苦手なのである。
「徐元直《じょげんちょく》どのか、おれのことはわかるか」
乱暴なまでに大きな声でたずねると、徐庶はどんよりとした目つきのまま、ゆっくりと顔を向けてきた。
「わかります。平狄将軍《へいてきしょうぐん》の張儁乂《ちょうしゅんがい》どの」
間近で見る徐庶は、ほかの育ちの良さが売りの文官たちとは、どこか雰囲気もちがっていた。
元気なときには、さぞかしさばけた男なのだろうなと、張郃は感じ取る。
いまは、暗く自分の殻に閉じこもってしまっているようだが。
とはいえ、徐庶の気持ちには構っていられない。
聞きたいことは山ほどあった。
「自己紹介の手間は省けるな。率直にお尋ねしたい。
元直どのは、劉備の軍師であったのだろう?
なれば、劉備のことにはくわしかろう。
単刀直入に聞くが、趙子龍という男をご存じないか」
表情のなかったその白い顔が、ようやくわずかに揺れた。
徐庶の眉がぴくりと動く。
懐かしい人物の名を聞いて喜んでいるのではない。
警戒しているのだ。
「なぜお尋ねになりますのか」
慎重な男だなと思いつつ、張郃は唇を舐めてから、ふたたび尋ねる。
「新野城《しんやじょう》でやつと戦った。この切り傷は、すべてやつにつけられたものだ」
と、張郃は自身のからだのあちこちにある、手当てのすんでいる切り傷を示した。
「あれほどの男が天下に名を知られていないとはおどろいた。
常山真定《じょうざんしんてい》の出身で、劉備の主騎ということだけは知っている。
それ以外で、貴殿の知っていることを教えてほしい」
それは、と徐庶が口をひらこうとする。
だが、いくらか迷っているようで、なかなか言葉が出てこない。
張郃が焦れていると、場に似合わぬ明るい声が割って入って来た。
「将軍がおっしゃるとおり、趙子龍は冀州の常山真定のうまれの男です。
かつて名をはせた趙国の王族の末裔とうわさされておりますが、果たしてどうでしょうな。
もとは公孫瓚《こうそんさん》の部下だった男ですが、劉備の家臣となり、いまはその主騎となっているのです」
おどろいて振り返ると、品の良い笑顔の、新顔の文官が立っていた。
零陵《れいりょう》の劉巴《りゅうは》、あざなを子初《ししょ》といったか。
年のころは張郃と変わらぬくらいで、高級そうな香油でまとめられたつやつやの黒髪が目を引く。
「失礼、お二方の会話が聞こえてきたものですから」
嫌みのない所作で劉巴は礼を取って、言う。
「いや、情報をもらえるのなら、ありがたい。趙子龍のことを、もっと詳しく教えてくれ」
「諸葛孔明どのの主騎も兼ねているときいております。
いわば、劉備と孔明どの、両方の用心棒といったところでしょうか」
劉備は呼び捨てで、孔明は「孔明どの」というところに違和感を感じていると、それを素早く察したのか、劉巴はころころ笑いながら言う。
「孔明どのとは文通仲間でしてな。
それに、かれが劉備の軍師になる以前、荊州の豪族たちのもめ事を一緒に解決したことがあったのです」
「ほう、すると、貴殿は諸葛孔明にもくわしいのか。どういう人物なのであろう」
「さきほど元直どのは、孔明どのを月と表現しましたが、わたしからすれば、太陽のような明るい方ですな。
はなはだ明るい……それを意味する『孔明』のあざなは、伊達ではありませぬ。
それに、ほとばしるような才気の持ち主です」
「なるほど、そうなると、丞相が興味を持たれるのも無理はない」
張郃が感心すると、なぜだか劉巴は、そうでしょうねえ、と謎めいた相槌を打った。
「ところで趙子龍だが、公孫瓚のところでは名前が通らなかったようだが、なぜだろう」
「くわしいことは存じ上げませぬ。
ただ、公孫瓚は晩年には暗君に成り果てましたから、かれは早くに見切りをつけて、出て行ったそうです。
それがゆえに活躍の場を与えられず、名も高められなかったのではないでしょうか」
「そうか。そういうことかもな」
いま思い返すと、趙子龍は、容姿もかなり整った男だった。
観相学の観点からしても、好ましい男である。
劉備が主騎として連れまわしたくなる気持ちがわかる。
「なにせ、荊州はしばらく平和でしたから、趙子龍がどれほどの活躍をしたかは、わたしの耳にも聞こえてきませんでした。
しかし、劉備の陣中でも、一、二を争う槍の達人と聞いております」
「ふむ、たしかに槍の扱いには長《た》けていたな」
「将軍、趙子龍にふたたびまみえたら、どうなされるおつもりですか」
劉巴の問いに、張郃はきっぱり答えた。
「斬る。しかし、もし恭順の態度をとるのであれば、丞相のため、その御前に引っ立てるつもりだ」
「明快ですな。心強い」
そう言って、劉巴は笑う。
つられて張郃もいっしょに笑ったが、途中で気づいた。
この劉巴、顔は笑っているが、目が笑っていない。
気味が悪いやつだ。
腹に何か隠しているのかもしれない。
こういうやつは、腹にとげどころか、剣を隠しているものだ。
あまりお近づきにならないほうがよいなと判断し、張郃は挨拶もそこそこに、その場を離れた。
取り残されていたかたちの徐庶も、無言のまま、その場を離れていった。
つづく
※ いつも読んでくださるみなさま、ありがとうございます(^^♪
次回より三章目に突入いたします。
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