※
のんびりとおしゃべりをしている間に、機を失したな、と孔明は思ったが、さほど苛立ちはしなかった。
花安英の動きを見ていれば、『その男』の行動もだいたい読めた。
その男…片腕の利かない男が、趙雲から目を離すわけがないのだ。
すでに東の空には、一番星が輝き始めている。
兵士たちの姿は、もはや輪郭でしかなく、個々を識別するのがむずかしい。
あの中に、蛾が焔《ほのお》にみずから巻かれるように、いずれは自らを滅ぼすと知りながら、嫉妬の炎に身を焦がす男がいる。
趙雲は、孔明を庇《かば》うようにして両手をひろげ、そして振り返らずに、緊張した声色で言った。
「馬に乗れ」
ああ、と返事をすると、趙雲はさらに周囲を睥睨《へいげい》しつつ、加えた。
「俺から離れるな」
孔明は、これにも、ああ、と生返事をした。
孔明が馬に乗るまで、自分たちを取り巻く兵卒たちが、おかしな振る舞いをしないように見張っているつもりなのだろう。
緊張に強ばる背中は頼もしい。
趙雲ならば、相手がたとえ千騎もの軍勢だったとしても、なんとかしてくれそうに思える。
孔明は思わず、微笑をもらした。
もし、生まれ変われるとして、誰のようになりたいかと問われれば、ほとんどの男が、趙雲のような男になりたいと答えるだろう。
男としての、すべての天分に恵まれた男。
それが趙雲である。
強く、美しく、聡明で、男気にあふれた気質を持っている。
こんなふうに、凛とした男に生まれたいと思うだろう。
自分のように自尊心のつよい人間が、これほど完璧に近い人間をとなりに置いて、それでもなお平静でいられるのは、自分がかれとは正反対の人間に近いからにほかならない。
もしも、自分も武将として、趙雲と轡《くつわ》をならべる立場であったなら、おそらく嫉妬どころの話ではないだろう。
麋竺《びじく》の弟の麋芳《びほう》が趙雲を憎む理由が、孔明には、なんとなく理解ができる。
完全なものには、隙がない。
完全なものを前にしたとき、人はふたつに分かれる。
羨望と尊敬の気持ちを素直に抱くものと、違和感や、苛立ちに似た感覚をおぼえるもの。
麋芳は前者なのだ。
孔明は、目を閉じ、息をついた。
おのれの覚悟を固めるためであった。
この期に及んでも、まだ迷っている。
趙雲たちと共に、新野に逃げること。
いまやすっかり新野の仲間たちに馴染み、すこしのあいだ離れていただけで、恋しく思う自分におどろいた。
そして、かれらと合流し、ともに襲い来る波に対抗することができたなら、どれだけ心強いだろうと思う。
だが、いま、新野に帰ってはだめだ。
なにも解決できないまま、争いだけを新野に持ち帰るような真似はできない。
孔明は、目を開き、さらに濃くなる地平の闇と、それから、手を伸ばせば届く距離にいる趙雲を見、そしてきらきらと星の瞬く空を見あげた。
『叔父上、貴方が命に替えてお守りくださった者は、けして友を見捨てるような、臆病者には育ちませんでした』
心の中でつぶやくと、もう怖《お》じまい、と決めた。
「孔明さま、お早く」
老人にうながされ、孔明は手綱を持つ。
そして、趙雲とおなじように、周囲を警戒する老人に言った。
「貴方の忠誠を、わたしは信じてもよいだろうか」
「もちろんでございますとも。なんなりとそれがしにお命じ下さいませ。
孔明さまのご命令であれば、それがしは、あんな兵卒どもなど、紙を千切るようにして薙ぎ払ってご覧に入れましょう」
孔明は、ふたたび微笑を浮かべる。
叔父の遺《のこ》してくれたものは、なんと素晴らしいものばかりであったのだろうか。
「ありがとう。それでは、さっそくお願いしたいことがある。わたしはこれから、やはり襄陽城へ行こうと思うのだ」
「判り申した。それがしは、あの不遜な石頭とは違います。
孔明さまの命令とあれば、火の中、水の中まで参りましょう」
「共に行ってほしいのは、その石頭とだよ。子龍を守ってやってはくれぬか」
「なんですと? それでは、孔明さまは、だれが守るというのです」
「わたしは大丈夫だ。だれもわたしには手を出せない。叔父上と一緒にはならないよ」
ですが、と反駁しようとする老人に、孔明は、じっと、その冴えた眼差しを当てる。
弁舌の術を学んで悟ったことは、言葉はただの道具にすぎないという、至極あたりまえのことであった。
本当に伝えたいことがあるときは、相手の目を真剣に見据える。
おのれの真心を込めて、こちらの本音をひたすら訴えるのである。
やがて、老人は、つと目を逸らし、首をちいさく振った。
「こうと決められたら、けして譲られぬところは、叔父上さまそっくりだ。
判り申した、従いましょう。しかし、お約束くだされ、かならず生きて戻る、と」
「わかった。かならず」
つづく
※ いつも当ブログにお越しいただき、ありがとうございます(*^▽^*)
ブログ村およびブログランキングに投票してくださっているみなさま、ありがとうございます!
そして、本日は更新が遅くなってすみません;
ちょっとバタバタしておりました。
さて、物語はさらに謎がほどけていく展開です。
あしたもどうぞお楽しみに。
あしたから、通常運転です(^^♪ どうぞ、またよろしくお願いします。
のんびりとおしゃべりをしている間に、機を失したな、と孔明は思ったが、さほど苛立ちはしなかった。
花安英の動きを見ていれば、『その男』の行動もだいたい読めた。
その男…片腕の利かない男が、趙雲から目を離すわけがないのだ。
すでに東の空には、一番星が輝き始めている。
兵士たちの姿は、もはや輪郭でしかなく、個々を識別するのがむずかしい。
あの中に、蛾が焔《ほのお》にみずから巻かれるように、いずれは自らを滅ぼすと知りながら、嫉妬の炎に身を焦がす男がいる。
趙雲は、孔明を庇《かば》うようにして両手をひろげ、そして振り返らずに、緊張した声色で言った。
「馬に乗れ」
ああ、と返事をすると、趙雲はさらに周囲を睥睨《へいげい》しつつ、加えた。
「俺から離れるな」
孔明は、これにも、ああ、と生返事をした。
孔明が馬に乗るまで、自分たちを取り巻く兵卒たちが、おかしな振る舞いをしないように見張っているつもりなのだろう。
緊張に強ばる背中は頼もしい。
趙雲ならば、相手がたとえ千騎もの軍勢だったとしても、なんとかしてくれそうに思える。
孔明は思わず、微笑をもらした。
もし、生まれ変われるとして、誰のようになりたいかと問われれば、ほとんどの男が、趙雲のような男になりたいと答えるだろう。
男としての、すべての天分に恵まれた男。
それが趙雲である。
強く、美しく、聡明で、男気にあふれた気質を持っている。
こんなふうに、凛とした男に生まれたいと思うだろう。
自分のように自尊心のつよい人間が、これほど完璧に近い人間をとなりに置いて、それでもなお平静でいられるのは、自分がかれとは正反対の人間に近いからにほかならない。
もしも、自分も武将として、趙雲と轡《くつわ》をならべる立場であったなら、おそらく嫉妬どころの話ではないだろう。
麋竺《びじく》の弟の麋芳《びほう》が趙雲を憎む理由が、孔明には、なんとなく理解ができる。
完全なものには、隙がない。
完全なものを前にしたとき、人はふたつに分かれる。
羨望と尊敬の気持ちを素直に抱くものと、違和感や、苛立ちに似た感覚をおぼえるもの。
麋芳は前者なのだ。
孔明は、目を閉じ、息をついた。
おのれの覚悟を固めるためであった。
この期に及んでも、まだ迷っている。
趙雲たちと共に、新野に逃げること。
いまやすっかり新野の仲間たちに馴染み、すこしのあいだ離れていただけで、恋しく思う自分におどろいた。
そして、かれらと合流し、ともに襲い来る波に対抗することができたなら、どれだけ心強いだろうと思う。
だが、いま、新野に帰ってはだめだ。
なにも解決できないまま、争いだけを新野に持ち帰るような真似はできない。
孔明は、目を開き、さらに濃くなる地平の闇と、それから、手を伸ばせば届く距離にいる趙雲を見、そしてきらきらと星の瞬く空を見あげた。
『叔父上、貴方が命に替えてお守りくださった者は、けして友を見捨てるような、臆病者には育ちませんでした』
心の中でつぶやくと、もう怖《お》じまい、と決めた。
「孔明さま、お早く」
老人にうながされ、孔明は手綱を持つ。
そして、趙雲とおなじように、周囲を警戒する老人に言った。
「貴方の忠誠を、わたしは信じてもよいだろうか」
「もちろんでございますとも。なんなりとそれがしにお命じ下さいませ。
孔明さまのご命令であれば、それがしは、あんな兵卒どもなど、紙を千切るようにして薙ぎ払ってご覧に入れましょう」
孔明は、ふたたび微笑を浮かべる。
叔父の遺《のこ》してくれたものは、なんと素晴らしいものばかりであったのだろうか。
「ありがとう。それでは、さっそくお願いしたいことがある。わたしはこれから、やはり襄陽城へ行こうと思うのだ」
「判り申した。それがしは、あの不遜な石頭とは違います。
孔明さまの命令とあれば、火の中、水の中まで参りましょう」
「共に行ってほしいのは、その石頭とだよ。子龍を守ってやってはくれぬか」
「なんですと? それでは、孔明さまは、だれが守るというのです」
「わたしは大丈夫だ。だれもわたしには手を出せない。叔父上と一緒にはならないよ」
ですが、と反駁しようとする老人に、孔明は、じっと、その冴えた眼差しを当てる。
弁舌の術を学んで悟ったことは、言葉はただの道具にすぎないという、至極あたりまえのことであった。
本当に伝えたいことがあるときは、相手の目を真剣に見据える。
おのれの真心を込めて、こちらの本音をひたすら訴えるのである。
やがて、老人は、つと目を逸らし、首をちいさく振った。
「こうと決められたら、けして譲られぬところは、叔父上さまそっくりだ。
判り申した、従いましょう。しかし、お約束くだされ、かならず生きて戻る、と」
「わかった。かならず」
つづく
※ いつも当ブログにお越しいただき、ありがとうございます(*^▽^*)
ブログ村およびブログランキングに投票してくださっているみなさま、ありがとうございます!
そして、本日は更新が遅くなってすみません;
ちょっとバタバタしておりました。
さて、物語はさらに謎がほどけていく展開です。
あしたもどうぞお楽しみに。
あしたから、通常運転です(^^♪ どうぞ、またよろしくお願いします。