※
崔州平と交替に火の番がやってきたため、孔明はおのれにあてがわれた馬車の中へと戻ることにした。
幌を掻き分けると同時に、中で横になっていた花安英《かあんえい》が声をかけてくる。
「なにかありましたか」
なぜわかると問うのは愚問のようであった。
花安英は、他者の、ありとあらゆる挙動に敏感だ。
おそろしく勘が良い。
他者の声の調子、足音、ちょっとした動作のちがいで、その本心をするどく見抜く。
「薬が切れたか。痛みはあるか」
「おかげさまで熱も下がりましたし、傷についても、たいして痛みはございませぬ。
それよりも、わたしの質問にお応え下さい」
やれやれ、と孔明は一息つき、花安英の隣に座った。
孔明は、この苦手だった煌びやかな少年に、いまは弟に対する感情のようなもの…いや、これまでの日々のなかで、知らずに切り離されていたおのれと再会したような、不思議な親近感を抱いていた。
「花安英、そなたは『無名』を知っているか」
「いえ。初めて聞く名ですね。おかしな名前だ。いや、名前がないのか」
「知らなければよい。ところで、樊城の隠し村に行ったことはあるのか」
「ございます」
ない、という答を想定していた。
花安英は籠の鳥のように、襄陽城で過ごしていたのだとばかり思っていたからだ。
「お前は意外に自由だったのだな」
「はじめは警戒されて、襄陽城の外からは出されませんでしたが、さいきんでは生まれ故郷の義陽にもどることすらできていましたよ」
「そうか」
意外であった。
孔明の想像力では、花安英が、父親のいる家に戻った時の様子を思い浮かべることはできない。
家門を守るために、妾とその子を修羅に突き落とした、いまいましい男。
それが、花安英の父親だ。
どんな男だかは知らないが、確実にろくなものではない。
父と顔をあわせていたのだろうか。
その質問をするのは酷だろう。
孔明が次の言葉をためらっていると、花安英は、ちいさく声をたてて笑った。
血色はだいぶよくなり、頬に赤みがもどってきている。
若いというのもあるだろうが、この少年が、思いもかけず、勤勉に体を鍛えていた証左であった。
「なんです、わたしに同情してくださっているのですか」
「あたりまえだろう。つらかったろうな」
本心から言うと、なぜだか花安英は、怒ったように、ぷいっと顔をそむけてしまった。
「あんたのその、直言をすぐに吐く癖、ほんとうになんとかならないものかな」
「すまない、これがわたしだ。慣れてくれ。
それより、樊城の隠し村について聞きたいのだが」
「樊城の隠し村は、潘季鵬が谷の間に無理につくった円形の村です。
四方は常に望楼で見張られ、外敵の侵入を防いでいます。
これを攻めるには、真正面から切り込むしかない」
「そうしたら、村にいる子供たちも殺されてしまう。
ほかに村に侵入するいい手立てはないか」
「ないわけではありませぬが…この間道をいったん外れて、隠し村の別の間道を行けば、村の中にある枯れ井戸のなかに行けます。
とはいえ、期待なさらぬように。別の間道といっても、ただの穴です。
村をつくった人夫の手が足りなかったので、脆《もろ》いつくりになっています。
潘季鵬は万が一のばあいに備えて、自分たちが脱出することばかりを優先して、村の地下のあちこちに道を走らせているのです。
ところで、なぜそのようなことをお尋ねになるのです。
崔州平は、どんな作戦を立てたのですか。火攻めでしょうか?」
「そうだ。火矢をかけて、村を焼き払うと言っている」
「軍師、言っておきますが、みなを助けようなどという甘い考えは捨てることです。
襄陽城の弟たちを救っただけで及第点ですよ」
「莫迦な。数ではないぞ」
「数ではないというのなら、なんです」
花安英の突っかかる物言いが気に障ったが、孔明はしばし沈黙し、考えをめぐらせた。
つづく
崔州平と交替に火の番がやってきたため、孔明はおのれにあてがわれた馬車の中へと戻ることにした。
幌を掻き分けると同時に、中で横になっていた花安英《かあんえい》が声をかけてくる。
「なにかありましたか」
なぜわかると問うのは愚問のようであった。
花安英は、他者の、ありとあらゆる挙動に敏感だ。
おそろしく勘が良い。
他者の声の調子、足音、ちょっとした動作のちがいで、その本心をするどく見抜く。
「薬が切れたか。痛みはあるか」
「おかげさまで熱も下がりましたし、傷についても、たいして痛みはございませぬ。
それよりも、わたしの質問にお応え下さい」
やれやれ、と孔明は一息つき、花安英の隣に座った。
孔明は、この苦手だった煌びやかな少年に、いまは弟に対する感情のようなもの…いや、これまでの日々のなかで、知らずに切り離されていたおのれと再会したような、不思議な親近感を抱いていた。
「花安英、そなたは『無名』を知っているか」
「いえ。初めて聞く名ですね。おかしな名前だ。いや、名前がないのか」
「知らなければよい。ところで、樊城の隠し村に行ったことはあるのか」
「ございます」
ない、という答を想定していた。
花安英は籠の鳥のように、襄陽城で過ごしていたのだとばかり思っていたからだ。
「お前は意外に自由だったのだな」
「はじめは警戒されて、襄陽城の外からは出されませんでしたが、さいきんでは生まれ故郷の義陽にもどることすらできていましたよ」
「そうか」
意外であった。
孔明の想像力では、花安英が、父親のいる家に戻った時の様子を思い浮かべることはできない。
家門を守るために、妾とその子を修羅に突き落とした、いまいましい男。
それが、花安英の父親だ。
どんな男だかは知らないが、確実にろくなものではない。
父と顔をあわせていたのだろうか。
その質問をするのは酷だろう。
孔明が次の言葉をためらっていると、花安英は、ちいさく声をたてて笑った。
血色はだいぶよくなり、頬に赤みがもどってきている。
若いというのもあるだろうが、この少年が、思いもかけず、勤勉に体を鍛えていた証左であった。
「なんです、わたしに同情してくださっているのですか」
「あたりまえだろう。つらかったろうな」
本心から言うと、なぜだか花安英は、怒ったように、ぷいっと顔をそむけてしまった。
「あんたのその、直言をすぐに吐く癖、ほんとうになんとかならないものかな」
「すまない、これがわたしだ。慣れてくれ。
それより、樊城の隠し村について聞きたいのだが」
「樊城の隠し村は、潘季鵬が谷の間に無理につくった円形の村です。
四方は常に望楼で見張られ、外敵の侵入を防いでいます。
これを攻めるには、真正面から切り込むしかない」
「そうしたら、村にいる子供たちも殺されてしまう。
ほかに村に侵入するいい手立てはないか」
「ないわけではありませぬが…この間道をいったん外れて、隠し村の別の間道を行けば、村の中にある枯れ井戸のなかに行けます。
とはいえ、期待なさらぬように。別の間道といっても、ただの穴です。
村をつくった人夫の手が足りなかったので、脆《もろ》いつくりになっています。
潘季鵬は万が一のばあいに備えて、自分たちが脱出することばかりを優先して、村の地下のあちこちに道を走らせているのです。
ところで、なぜそのようなことをお尋ねになるのです。
崔州平は、どんな作戦を立てたのですか。火攻めでしょうか?」
「そうだ。火矢をかけて、村を焼き払うと言っている」
「軍師、言っておきますが、みなを助けようなどという甘い考えは捨てることです。
襄陽城の弟たちを救っただけで及第点ですよ」
「莫迦な。数ではないぞ」
「数ではないというのなら、なんです」
花安英の突っかかる物言いが気に障ったが、孔明はしばし沈黙し、考えをめぐらせた。
つづく
※ いつも当ブログに遊びに来てくださっているみなさま、ありがとうございます(#^.^#)
そして、ブログ村およびブログランキングに投票してくださっているみなさまも、感謝です!
細かいエピソードが連なっている部分の連載をしておりますが、なかなかサブタイトルがいいふうにつけられません;
センスないなー、と我ながら思っております…
これも慣れでしょうかねえ。
今日の仙台、とびきり寒いです。みなさまもどうぞご自愛ください。
では、よい一日をお過ごしくださいませー('ω')ノ