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帯とけの枕草子〔六十五〕集は
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
清少納言 枕草子〔六十五〕集は
集は、古万葉、古今。
(歌集は古万葉集と古今和歌集・すばらしい……終は、来まん様、コキン!)。
言は戯れる物。言の孕む意味をすべて引き受けましょう。
「集…秋…終…しふ…肢夫…おとこ」「古万葉…新撰万葉集ではない…来まん様…こまんえふ…来まむ枝夫…来そうなおとこ」「来る…山ばが来る…果てが来る…折れ逝きそう」「ん…む…推量を表す」「古今…古今和歌集…こきん…ものが折れ逝く擬音…もろい…薄い」。
これは、女の作った諧謔。女たちの男どもへの諸々の憤懣が、笑いと共に少し解消できれば望むところでしょう。
これは、神代より言の戯れを利して作られてきた和歌と全く同じ文脈ある。
万葉集の歌を一首聞きましょう。巻第十題は「詠花」。柿本人麻呂の歌集出の歌。
夕されば野辺の秋はぎうら若み 露に枯れけりあき待ち難く
(夕方になれば、野辺の秋萩、うら若くして、露に枯れてしまった、秋待ち難くて……果て方になれば、ひら野の飽き端木は、心若きため、白つゆに枯れることよ、飽き満ちるのを待ちかねて)。
「野辺…山ばで無い辺り」「秋…飽き」「はぎ…萩…端木…おとこ」「木…おとこ」「露…白つゆ…おとこ白つゆ」。
言の戯れの中に顕われる「心におかしきところ」は、男のはかないさがでしょう。
秋萩の景色を詠んだ清げな意味は「歌の姿」。「深い心」が感じられれば、藤原公任の定義する「優れた歌」となる。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人しらず (2015・8月、改定しました)
枕草子の原文は、新日本古典文学大系 枕草子 (岩波書店)による