帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔七十一〕けさう人にて

2011-05-16 00:08:11 | 古典

 



                     帯とけの枕草子〔七十一〕けさう人にて



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言 枕草子〔七十一〕けさう人にて

 
恋人として来ているのは言うまでもない、ただちょっと語らう人も、また、そういうのでなくても、自然に行き来する人が、簾の内で人々と大勢で会話しているときに、入ってすぐには帰る様子もないのを、その供の男や童などが、あれこれとさし覗き様子を見るとき、「をのゝへも朽ぬべきなめり(斧の柄も朽ちてしまうだろう…おとこの身の枝も朽ちてしまうでしょうよ)」と、まったく我慢できないので、長いあくびをして、密かにと思って言うようだけれど、「あな侘し、ぼんなうくなうかな、夜はよ中に成ぬらむかし(あゝ、どもならん煩悩苦悩やなあ。夜は夜のど真ん中になってしまうよ)」と言っている、いみじう心づきなし(まったく不愉快)。このように言う者はどうこう思わない、内に居る主人のほうが、すばらしいと見えていたことも失せるように思われる。
 また、そのように、色にいでてはえいはず(言葉にして心の内を言えず…色事にして言えないで)、「あな(あゝ)」と高らかに言って呻いているのが、「した行く水の…(言えないけど思っているのね)」と、いとほし(いじらしい)。

 立蔀や透垣などのもとで、「雨ふりぬべし(雨が降ってしまうでしょう…おとこ雨降ったのだろう)」などと聞こえる事を言うのも、いとにくし(まったく憎らしい)。たいそう良い身分の人の御供の人などはそういうことはない。君達(若い主人)の場合は、よろし(まあいい)。それより下の分際は、供の者が皆そのようなありさまである。大勢いる中でも、心遣いを見て、連れてあるきたいものよ。


 言の戯れと言の心

 「斧の柄も朽ちぬ(中国の故事にある言葉)…斧の柄も朽ちるほどの時間が経った…男の身の枝も朽ちるほど時が経った」「した行く水の…古歌の句…下ゆくをみなのように…言わないけれど思っているのね」「雨…おとこ雨」。



 古今六帖の「したゆく水の」歌を聞きましょう。

心には下ゆく水のわきかへり 言わで思うぞ言ふにまされる

(心には、底流する水が湧きかえり、言わずに思っている、言うよりもまして思っている……心には下逝くみずが湧き返り言わずに思いを思っているのよ、言うより増さっている)。


 「下…身の下」「行く…流れる…逝く」「水…女…液」。


 

「下行く水の」は女歌。藤原公任のいう「深い心」「清げな姿」の無い。「心におかしきところ」のみの、奥ゆかしさのない「侮るべき古歌」でしょう。


 

伝授 清原のおうな

聞書  かき人しらず  (2015・8月、改定しました)


  枕草子の原文は、新日本古典文学大系 枕草子(岩波書店)による