■■■■■
帯とけの枕草子〔七十四〕しきの御ぞうし
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
清少納言 枕草子〔七十四〕しきの御ぞうし
職の御曹司(内裏を出てすぐ北東の建物…内裏の鬼門に追いやられたとは言いたくない)に、中宮が・いらっしゃる頃、木立などがはるか高く古木で、屋敷の様子も高く、けどをけれどもすずろにおかしうおぼゆ(親しめないけれども何となく風情を感じる…人近寄り難いけれども思いがけず趣は感じる)。
母屋には鬼がいるということで、南へ隔て離れて、南の廂の間に御几帳立てて、宮はいらっしゃる。まご廂に女房は控えている。
近衛の御門より、左衛門の陣(内裏の東門の詰所)に参られる上達部の、さきども(先ばらいの声々)、殿上人のは短いので、おほさき、こさき(大前駆、小前駆…大さき、小さき)と、女房たちが名づけて聞きさわぐ。数多く度重なれば、その声々をみな聞き知って、主人はその人よ、あの人よなどと言っているので、また、彼ではないわなどと言えば、他の人を見にやらせたりして言い当てると、だからやっぱりねなどと言うのも、おかしい。
あり明(有明け…月人壮士の残って居る朝)の、たいそう霧に包まれている庭に下りて散歩するのをお聞きになられて、主上、宮もお起きになられた(御変わりなく御仲は睦ましい)。上にお仕えする女房たちも皆出て、庭に下りたりして遊ぶときに、しだいに明けてゆく。「左衛門の陣にまかり見ん(左衛門の陣に行って見ましょう)」と行けば、われもわもと追っかけて続いて行くときに、殿上人の大勢の声がして、「何がし一声秋(誰かの一声の秋…誰かの一声の飽き)」と朗詠して参る声がするので、女房たちは逃げ入って応対する。
「月を見給けり(有明の月をご覧になられたのね…その女は月人壮士を見給うたのね)」などと愛でて、歌詠む女もいる。夜も昼も、殿上人の絶える折もない。上達部まで参り給うので、とくに急ぐことのない者は必ず参上される。
言の戯れと言の心
「けどを…氣遠…遠く隔たった感じ…人気が無い…近寄り難い」「すずろ…漫然と進行するさま…思いがけないさま」「あり明…月が空に残っている明け方…いまだ男が女のもとに居る朝方」「月…月人壮士(万葉集の歌詞)…つき…おとこ」「さき…前払い…身の先端…お花の咲きっぷり」。
朗詠するのを聞き逃げた詩を聞きましょう。
藤原公任撰「和漢朗詠集」上、夏納涼 源英明
池冷水無三伏夏 松高風有一声秋
(池冷く水に長く暑い夏無し、松高く風に一声の秋有り……逝け冷ややか、をみなに三伏の撫づ無し、待つひと高く心風に一声の厭き有り)
同じ言なれども聞き耳異なるもの、男の言葉、女の言葉。漢字も様々色々に戯れる。
「池…逝け…尽き」「水…をみな…女」「三伏…暑い夏の三十日間…三度伏す…三度の熱い共寝」「夏…なつ…撫つ…熱い愛撫」「松…待つ…女」「風…心に吹く風」「秋…厭き…いとわしい…飽き…満ち足りる」。
なお、或る人、この詩句「水冷池無三伏夏 風高松有一声秋」と作るべきだといったという。すると「……をみな冷え逝く、三伏の熱い撫づは無けれども、心風高く、待つ女一声の飽き満ち足り有り」と聞こえるのでしょう。
女たちもこの詩句の意味を知っていて「その女は月(月人をとこ…尽き)を見たのね」と和歌を詠む者も居る。
如何なる所にあっても、たとえ気遠く意外な所に追いやられても、社交の中心はこの後宮にある。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人しらず (2015・8月、改定しました)
枕草子の原文は、新 日本古典文学大系 枕草子(岩波書店)による