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帯とけの新撰和歌集
歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿だけではなく、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生の心情が顕れる。
紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首(二百八十七と二百八十八)
露だにもなからましかば秋の夜を 誰とおきゐて人を待たまし
(二百八十七)
(風情のある白露さえも無いならば、秋の夜長を、独りわたしは、何と共に起きて居て、あの人を待つのでしょうか……おとこ白つゆさえ、もう無いのならば、飽きの余を、わたしは垂れと共に起きていて、人おを、まつのでしょうね)。
言の戯れと言の心
「つゆだにも…露さえも…風情ある月光に輝く白露さえも…ほんの少しも…おとこ白つゆさえも」「なからましかば…無いと仮定すれば…無いようならば」「あきの夜…秋の長い夜…飽きの夜…飽き満ち足りた余」「人を…あの人を…男お…おとこ」「だれと…誰と一緒に…何と共に…たれと…垂れと共に…垂れ下がったものと」「またまし…待つことになるだろう…待つのだろう」。
古今集の歌ではない。女の歌として聞く。
歌の清げな姿は、秋の夜に庭の草花の露を見ながら人を待つ風情。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、秋の夜長の余を、垂れおと共におの復活を待つことになるのでしょうね、というところ。
流れてもなほ世の中をみよし野の 滝の白玉いかでひろはむ
(二百八十八)
(君との仲は流れても、なお男女の仲を見良しのの、たぎる白玉、どのようにして拾おうかしら……汝、涸れても、汝お、夜の仲を、見好しのの多気の白玉、井かでひろ、食む)。
言の戯れと言の心
「ながれても…流れても…涙が流れても…悲しい事があっても…良き仲が流れても…汝涸れても…おとこ涸れても」「な…汝…親しきもの…おとこ」「世の中…男女の仲…夜の仲」「みよしの…み吉野…所の名…名は戯れる。すばらしい、見好しの、身好しの」「み…見…媾」「滝…たぎる…多気…多情」「白玉…水玉…おとこ白玉」「いかで…何としても…井かで」「井…女」「で…場所・具などを示す」「ひろはむ…拾おう…しおらしく拾うことにしょう…ひろ食む」「ひろ…ひるの命令形…液体などを体外に出せ」「はむ…食む…食らおう」。
古今集の歌ではない。女の歌として聞く。
歌の清げな姿は、男との仲が流れて、しおらしくなった女心。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、女の多情が顕わなところ。これが仲が流れた原因でしょう。
両歌とも、一般向けの歌集の「古今和歌集」には採用できない歌。仮名序にいう「あだなる歌」で、「色好みの家に埋もれ木の、人知れぬこととなりて、まめなる所には、花薄穂に出すべきことにも、あらずなりにたり」と言う歌。おとなの為のおとなの歌集の「新撰和歌集」には相応しいでしょう。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。