帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑(二百八十七と二百八十八)

2012-09-01 00:04:14 | 古典

   



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿だけではなく、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生の心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首
(二百八十七と二百八十八)


 露だにもなからましかば秋の夜を 誰とおきゐて人を待たまし
                                 
(二百八十七)

 (風情のある白露さえも無いならば、秋の夜長を、独りわたしは、何と共に起きて居て、あの人を待つのでしょうか……おとこ白つゆさえ、もう無いのならば、飽きの余を、わたしは垂れと共に起きていて、人おを、まつのでしょうね)。


 言の戯れと言の心

 「つゆだにも…露さえも…風情ある月光に輝く白露さえも…ほんの少しも…おとこ白つゆさえも」「なからましかば…無いと仮定すれば…無いようならば」「あきの夜…秋の長い夜…飽きの夜…飽き満ち足りた余」「人を…あの人を…男お…おとこ」「だれと…誰と一緒に…何と共に…たれと…垂れと共に…垂れ下がったものと」「またまし…待つことになるだろう…待つのだろう」。


 古今集の歌ではない。女の歌として聞く。


 歌の清げな姿は、秋の夜に庭の草花の露を見ながら人を待つ風情。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、秋の夜長の余を、垂れおと共におの復活を待つことになるのでしょうね、というところ。


 

 流れてもなほ世の中をみよし野の 滝の白玉いかでひろはむ
                                 
(二百八十八)

 (君との仲は流れても、なお男女の仲を見良しのの、たぎる白玉、どのようにして拾おうかしら……汝、涸れても、汝お、夜の仲を、見好しのの多気の白玉、井かでひろ、食む)。


 言の戯れと言の心

 「ながれても…流れても…涙が流れても…悲しい事があっても…良き仲が流れても…汝涸れても…おとこ涸れても」「な…汝…親しきもの…おとこ」「世の中…男女の仲…夜の仲」「みよしの…み吉野…所の名…名は戯れる。すばらしい、見好しの、身好しの」「み…見…媾」「滝…たぎる…多気…多情」「白玉…水玉…おとこ白玉」「いかで…何としても…井かで」「井…女」「で…場所・具などを示す」「ひろはむ…拾おう…しおらしく拾うことにしょう…ひろ食む」「ひろ…ひるの命令形…液体などを体外に出せ」「はむ…食む…食らおう」。


 古今集の歌ではない。女の歌として聞く。


 歌の清げな姿は、男との仲が流れて、しおらしくなった女心。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、女の多情が顕わなところ。これが仲が流れた原因でしょう。



 両歌とも、一般向けの歌集の「古今和歌集」には採用できない歌。仮名序にいう「あだなる歌」で、「色好みの家に埋もれ木の、人知れぬこととなりて、まめなる所には、花薄穂に出すべきことにも、あらずなりにたり」と言う歌。おとなの為のおとなの歌集の「新撰和歌集」には相応しいでしょう。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず

 
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。