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帯とけの新撰和歌集
歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿だけではなく、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生の心情が顕れる。
紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首 (三百三と三百四)
おほあらきのもりの下草おいぬれば 駒もすさめず刈る人もなし
(三百三)
(大荒木の、森の下草生えたので、駒も進めず、刈る人もいない……大荒気、盛りのしたくさ、感極まったので、股間も進めず、娶る男もいない)。
言の戯れと言の心
「大荒木…所の名…名は戯れる。大粗気、多荒気」「もり…森…盛り…さかり」「下草…森の木の下に生える草…した女…女」「草…くさ…女」「おひ…生ひ…はえる…生長する…おい…老い…極まる…感極まる…さかる」「こま…駒…股間…おとこ」「すさめず…勢いのまま進めず…気が向くままに事をなせず」「かる…草などを刈る…狩る…捕え我がものとする…娶る」。
古今和歌集 雑歌上。題しらず、よみ人しらず。
歌の清げな姿は、名の通りになった大荒木の森の風景。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、大荒気の、老いた下草と感の極みの下草は、おとこの進んで行けない相手。これは、おとこのさが。
秋の田の稲といふともかけなくに をらじとなどか人の云ふらん
(三百四)
(秋の田の稲といえども、刈り架けていないのになあ、折りとらないと、どうして農夫が言うのだろうか……飽きの田の入根といえども、思いをかけないのに、折らないとどうして女が言うのだろう)。
言の戯れと言の心
「秋の田…飽き満ち足りたところ…充実したところ…飽き満ち足りた女」「田…女…多…多情」「いね…稲…いね…去れ…入根…射根…おとこ」「とも…としても…であっても」「かけなくに…かけないのに…掛けないのに…刈取った稲を掛けていないのになあ…心を寄せないのに…思いを掛けないのに」「をらじ…折らじ…折らない」「折らじ…稲穂を折り採らない…女の立場でおとこを折らない…女の立場でおとこを逝かせない」「らん…どうしてだろう…現在の事実についてその原因・理由の推量…穂が充分に実のっていないからと推定される…男の思いが足りないからと推定される」。
本歌は、古今和歌集恋歌五、法師の歌ながら、換骨奪胎され見事に別歌となっている、貫之の仕業。
歌の清げな姿は、刈り取って穂を下に掛けて置く、穂先だけ折り採るなど、農夫の判断。
歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、女が常に受け入れて折ると思うのは、男の勝手な思い。
古今集の本歌を聞き直しましょう。題しらず、素性法師。
秋の田のいねてふこともかけなくに 何を憂しとか人のかるらん
(秋の田のいねという言葉も掛けないのに、何を憂しと人が離れてゆくのだろう……飽きの多情女がいねという言葉もかけないのに、何を憂しと男が離れて行くのだろうね)。
おとこのさがを女たちに説いたもののよう。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。