帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑(三百三と三百四)

2012-09-11 06:09:02 | 古典

   



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿だけではなく、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生の心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首
(三百三と三百四)

 

 おほあらきのもりの下草おいぬれば 駒もすさめず刈る人もなし
                                    
(三百三)

(大荒木の、森の下草生えたので、駒も進めず、刈る人もいない……大荒気、盛りのしたくさ、感極まったので、股間も進めず、娶る男もいない)。


 言の戯れと言の心

 「大荒木…所の名…名は戯れる。大粗気、多荒気」「もり…森…盛り…さかり」「下草…森の木の下に生える草…した女…女」「草…くさ…女」「おひ…生ひ…はえる…生長する…おい…老い…極まる…感極まる…さかる」「こま…駒…股間…おとこ」「すさめず…勢いのまま進めず…気が向くままに事をなせず」「かる…草などを刈る…狩る…捕え我がものとする…娶る」。


  古今和歌集 雑歌上。題しらず、よみ人しらず。


 歌の清げな姿は、名の通りになった大荒木の森の風景。歌は唯それだけではない。

歌の心におかしきところは、大荒気の、老いた下草と感の極みの下草は、おとこの進んで行けない相手。これは、おとこのさが。

 


 秋の田の稲といふともかけなくに をらじとなどか人の云ふらん
                                    
(三百四)

 (秋の田の稲といえども、刈り架けていないのになあ、折りとらないと、どうして農夫が言うのだろうか……飽きの田の入根といえども、思いをかけないのに、折らないとどうして女が言うのだろう)。


 言の戯れと言の心

 「秋の田…飽き満ち足りたところ…充実したところ…飽き満ち足りた女」「田…女…多…多情」「いね…稲…いね…去れ…入根…射根…おとこ」「とも…としても…であっても」「かけなくに…かけないのに…掛けないのに…刈取った稲を掛けていないのになあ…心を寄せないのに…思いを掛けないのに」「をらじ…折らじ…折らない」「折らじ…稲穂を折り採らない…女の立場でおとこを折らない…女の立場でおとこを逝かせない」「らん…どうしてだろう…現在の事実についてその原因・理由の推量…穂が充分に実のっていないからと推定される…男の思いが足りないからと推定される」。


 本歌は、古今和歌集恋歌五、法師の歌ながら、換骨奪胎され見事に別歌となっている、貫之の仕業。


 歌の清げな姿は、刈り取って穂を下に掛けて置く、穂先だけ折り採るなど、農夫の判断。
 歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、女が常に受け入れて折ると思うのは、男の勝手な思い。


 古今集の本歌を聞き直しましょう。題しらず、素性法師。

 秋の田のいねてふこともかけなくに 何を憂しとか人のかるらん

 (秋の田のいねという言葉も掛けないのに、何を憂しと人が離れてゆくのだろう……飽きの多情女がいねという言葉もかけないのに、何を憂しと男が離れて行くのだろうね)

 おとこのさがを女たちに説いたもののよう。


 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。