帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑 (三百二十一と三百二十二)

2012-09-21 00:05:14 | 古典

   


          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿だけではなく、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生の心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首
(三百二十一と三百二十二)


 あはれてふ事にしるしはなけれども 言はではえこそあらぬものなれ
                                  
(三百二十一)

 (しみじみと感動する事に、もとより標はないけれども、表現しなければ、存在することのできないものである……感極まるということに、もとより標はないけれども、あゝはれと言わなければ、あはれは無いのである)


 言の戯れと言の心

 「あはれ…しみじみと感動する…感極まる…あゝはれ…ああすばらしい…ああはればれ…あゝいい」「しるし…標…目印…目に見えるかたち」「いはでは…表現しなければ…歌などの言葉で表現しなければ…声に出して言わなければ」「えこそあらぬものなれ…在り得ないものである…この世に存在し得ないものである」「なれ…なり…断定を表す」。

 
 古今集の歌ではない。後撰和歌集 雑四 貫之。詞書によると、或るところで簾の前であれこれと話をしているのを聞いて、簾の内より女の声で「あやしくももののあはれ知り顔の翁かな」と言うのを聞いて、詠んだ歌。

 歌の清げな姿は、個人的感情は言葉で表現しなければ世に存在し得ない。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、感極まれば、あゝあゝと声に発しないと、あはれは存在しないのである。



 世の中のうけくにあきぬ奥山の 木の葉にふれる雪や消なまし
                                  
(三百二十二)

 (世の中の憂きことに厭きた、奥山の木の葉に触れる心の雪、消えてしまうでしょうか……女と男の夜の仲の浮きことに飽きた、女の山ばの、この端に降れる白ゆき、消えてしまうかしら)


 言の戯れと言の心

 「世の中…女と男の仲…夜の仲」「うけくに…憂けくに…辛いことに…浮けくに…浮かれることに」「あきぬ…飽きてしまった…厭きた…いやになった」「おく…奥…女」「山…山ば」「木の葉…此の端…わが身の端」「ふれる…触れる…降れる…降らされた(受身)」「ゆき…雪…冷え冷えした…白けた…白ゆき…おとこ白ゆき…行き…逝き」「ゆきやけなまし…雪はもしや消えてしまうでしょうか…逝き消えてしまうものかしら(断定しかねる意を表す)」。


 古今和歌集 雑歌下題しらず よみ人しらず。女の歌として聞く。

 歌の清げな姿は、世を厭う心は奥山に行けば消えるのかどうか。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、飽きたといっても、この端に降り置かれた白ゆき、消えるのかどうか。                              



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。