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帯とけの新撰和歌集
歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿だけではなく、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生の心情が顕れる。
紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首 (三百二十七と三百二十八)
伊勢の海の海人のたく縄うちはへて 苦しとのみや思ひわたらむ
(三百二十七)
(伊勢の海の漁師の手繰る縄、延びきって、心配ばかり、思いつづくのだろうか……井背の倦みの、吾女があやつるつな、伸びきって、苦しいとばかり思いつづくようなのだ)。
言の戯れと言の心
「伊勢…所の名…名は戯れる。井背、女と男」「海…憂み…つらい情態…倦み…うんざりする情態」「あま…海士…海女…吾女…妻」「たく…手繰る…あやつる」「つな…縄…緒、紐などと共に男…おとこ」「うちはへ…引き続く…延びきる…伸びきる…こと切れそうな情態」「くるし…心苦しい…心配だ…胸が苦しい」「む…推量の意を表す…推定するような言い方で、柔らかく遠まわしに言う意を表す」。
古今和歌集 恋歌一。題しらず、よみ人しらず。第二句「あまのつりなは」。男の歌として聞く。
歌の清げな姿は、人の世の心配事は次から次へとつづくのだろうか。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、女と男の仲、うんざりするとき、弱気な男の発言。
かくしつゝ世をやつくさむ高砂の をのへに立てる松ならなくに
(三百二十八)
(こうして、世を過ごし尽くすのでしょうか、高砂の尾根の上に立っている松ではないのに……こうして、夜を過ごし尽くすのでしょうか、あの小高い山ばの峰の上に立っている女ではないのよ)。
言の戯れと言の心
「世…夜」「つくさむ…尽くすのだろう…はてるのだろう」「たかさごのをのへ…高砂の尾の上…小高い山ばの峰の上…絶頂…京…宮こ」「松…待つ…女」「ならなくに…ではないのに…ではないのだよ…男は女を山ばの京へ送り届けるのが業であるのに未だ成らずよ」。
古今和歌集 雑歌上。題しらず、よみ人しらず。女の歌として聞く。
歌の清げな姿は、わたしの人生、こうして終わってしまうのか、その辺の草木じゃあるまいし。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、今夜はこうして、尽きてしまうの、いまだ山ばの峰に立っていないのに。男に対する女の詰問。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。