帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑 (三百二十七と三百二十八)

2012-09-25 00:06:35 | 古典

   



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿だけではなく、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生の心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首
(三百二十七と三百二十八)


 伊勢の海の海人のたく縄うちはへて 苦しとのみや思ひわたらむ
                                  
(三百二十七)

 (伊勢の海の漁師の手繰る縄、延びきって、心配ばかり、思いつづくのだろうか……井背の倦みの、吾女があやつるつな、伸びきって、苦しいとばかり思いつづくようなのだ)


 言の戯れと言の心

 「伊勢…所の名…名は戯れる。井背、女と男」「海…憂み…つらい情態…倦み…うんざりする情態」「あま…海士…海女…吾女…妻」「たく…手繰る…あやつる」「つな…縄…緒、紐などと共に男…おとこ」「うちはへ…引き続く…延びきる…伸びきる…こと切れそうな情態」「くるし…心苦しい…心配だ…胸が苦しい」「む…推量の意を表す…推定するような言い方で、柔らかく遠まわしに言う意を表す」。


 古今和歌集 恋歌一。題しらず、よみ人しらず。第二句「あまのつりなは」。男の歌として聞く。

 歌の清げな姿は、人の世の心配事は次から次へとつづくのだろうか。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、女と男の仲、うんざりするとき、弱気な男の発言。



 かくしつゝ世をやつくさむ高砂の をのへに立てる松ならなくに
                                  
(三百二十八)

 (こうして、世を過ごし尽くすのでしょうか、高砂の尾根の上に立っている松ではないのに……こうして、夜を過ごし尽くすのでしょうか、あの小高い山ばの峰の上に立っている女ではないのよ)


 言の戯れと言の心

 「世…夜」「つくさむ…尽くすのだろう…はてるのだろう」「たかさごのをのへ…高砂の尾の上…小高い山ばの峰の上…絶頂…京…宮こ」「松…待つ…女」「ならなくに…ではないのに…ではないのだよ…男は女を山ばの京へ送り届けるのが業であるのに未だ成らずよ」。


 古今和歌集 雑歌上。題しらず、よみ人しらず。女の歌として聞く。

 歌の清げな姿は、わたしの人生、こうして終わってしまうのか、その辺の草木じゃあるまいし。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、今夜はこうして、尽きてしまうの、いまだ山ばの峰に立っていないのに。男に対する女の詰問。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。