帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑 (三百二十三と三百二十四)

2012-09-22 00:12:57 | 古典

   



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿だけではなく、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生の心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首
(三百二十三と三百二十四)


 あさぢふの小野の篠原しのぶとも 人しるらめや言ふ人なしに
                                  
(三百二十三)

 (浅く茅の生える小野の篠原、偲べども、あの人は知っているのでしょうか、言う人いないので……浅いおとこ夫の、山ばの無い野原、耐え忍ぶとも、あの人は知っているのかしら、言う人いないし)


 言の戯れと言の心

 「あさぢふ…浅茅生…低い茅が生えている…情浅いおとこ極まる」「浅茅…浅いおとこ…情の浅い矛くさ」「茅…すすきなどと共に男」「ふ…生…夫」「おふ…生える…極まる」「小野の篠原…所の名…名は戯れる。小野の偲ぶ腹。山ばの無い小さな野原忍ぶ腹」「はら…原…山ばなし…腹…心の内」「しのぶ…偲ぶ…恋い慕う…忍ぶ…耐え忍ぶ」。


 古今和歌集 恋歌一。題しらず、よみ人しらず。女の歌として聞く。

 歌の清げな姿は、片恋の女の心情。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、浅く山ばの無い夜の仲についての女の憤懣。

 


 山彦のおとづれじをぞ今は思ふ われか人かとたどらるゝよに
                                  
(三百二十四)

 (山彦のように折り返して訪れないとだ、今は思う、どうして我か他の人ではないのかと思い惑っている世に……山ばのおとこが、お門つれないとだと、今は思う、われかひとかとさぐり求めあう夜なのに)


 言の戯れと言の心

 「山彦の…山彦のように…山ばのおとこが」「山…山ば」「ひこ…彦…男…おとこ」「おとづれじ…訪れない…お門つれじ…おとこ門つれない…和合できない」「を…対象を示す…お…おとこ」「ぞ…強く指示する意を表す」「われか人かと…我なのか他の人ではないのか…手さぐりでわれかひとかと」「たどらるゝ…思いまよっている…さぐり求めている…さぐり求められる…さぐり求め合う」「よに…世に…宮仕えの日々に…折りに…夜に…夜なのに」「に…時を示す…ので…のに」。


 古今和歌集 雑歌下。男の歌。詞書によると、左近将監(三等官)を解任された時に、女が慰めによこした便りの返事に詠んで遣った歌。本歌は「あま彦のをとづれじとぞ今は思 我か人かと身をたどる世に」。

 歌の清げな姿は、人事に関するとまどいや不満のために萎えた男心。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、世の仕打ちに思い迷う折りで、つれない夜になるので、訪れないという男心。

 

 
 おとなの男たちの為に撰び集めた歌を、貫之が手直ししながら編集した歌集である。



 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


 新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。