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帯とけの新撰和歌集
歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿だけではなく、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生の心情が顕れる。
紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首 (三百一と三百二)
今ぞしるくるしきものと人待たむ 里をばかれずとふべかりけり
(三百一)
(今知ったよ、苦しいものと、人を待っているであろう女の里をば、離れず訪うべきであったなあ……今知ったよ、苦しいものと、男待つ、さ門、おは涸れず訪門すべきだなあ)。
言の戯れと言の心
「人…男」「里…女の実家…さと…さ門…女」「さ…美称…細」「をば…特に取り出して強調する意を表す…おは…おとこは」「かれず…離れず…間を置かず…涸れず」「とふ…訪れる…訪問する」。
古今和歌集 雑歌下、男の歌。詞書によれば「或る男が、地方の国の次官として赴任した時に、餞別をしょうと、今日と言い送った時に、此処彼処に行き歩いて、夜の更けるまで参り来なかったので、遣った」歌。
歌の清げな姿は、人を待つ苦しみを今知った。君は、あちこちに、訪ねて置くべき里が、在ったのだなあ。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、男は、待つさ門をば涸れず訪問するべきだった、君はやっていたのだ。
忘れ草なにをか種と思ひしを つれなき人のこゝろなりけり
(三百二) (忘れ草、何を種としているかと思っていたら、つれない人の心だったのだ……忘れくさ、見捨てられ女の種は何かと思っていたら、薄情な男の此処ろ、だったのだ)。
言の戯れと言の心
「忘れ草…人忘れ草…人に忘れられる女…ひとを忘れる種」「草…女…くさ…種」「つれなき…薄情な…冷淡な」「人…女…男」「こころ…心…此処ろ…ここら…この辺の物」「けり…気付きや詠嘆の意を表す」。
古今和歌集 恋歌五。法師の歌。詞書によると「寛平の御時、御屏風に歌書かせ給ひける時、詠みて書きける」。
歌の清げな姿は、忘れ草、種は何かと思ったら、薄情な人の心だったのだ。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、女を見捨てる種は、薄情な男の此処ろだったのだ。
人麻呂の歌以降、この辺り、恋雑ではなく雑歌対恋歌となっているが気にしない。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。