帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑(三百一と三百二)

2012-09-10 05:54:06 | 古典

   



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿だけではなく、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生の心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首
(三百一と三百二)


 今ぞしるくるしきものと人待たむ 里をばかれずとふべかりけり
                                    (三百一)

 (今知ったよ、苦しいものと、人を待っているであろう女の里をば、離れず訪うべきであったなあ……今知ったよ、苦しいものと、男待つ、さ門、おは涸れず訪門すべきだなあ)


 言の戯れと言の心

 「人…男」「里…女の実家…さと…さ門…女」「さ…美称…細」「をば…特に取り出して強調する意を表す…おは…おとこは」「かれず…離れず…間を置かず…涸れず」「とふ…訪れる…訪問する」。


 古今和歌集 雑歌下、男の歌。詞書によれば「或る男が、地方の国の次官として赴任した時に、餞別をしょうと、今日と言い送った時に、此処彼処に行き歩いて、夜の更けるまで参り来なかったので、遣った」歌。

 
 歌の清げな姿は、人を待つ苦しみを今知った。君は、あちこちに、訪ねて置くべき里が、在ったのだなあ。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、男は、待つさ門をば涸れず訪問するべきだった、君はやっていたのだ。


 忘れ草なにをか種と思ひしを つれなき人のこゝろなりけり
                                   
(三百二) (忘れ草、何を種としているかと思っていたら、つれない人の心だったのだ……忘れくさ、見捨てられ女の種は何かと思っていたら、薄情な男の此処ろ、だったのだ)。


 言の戯れと言の心

 「忘れ草…人忘れ草…人に忘れられる女…ひとを忘れる種」「草…女…くさ…種」「つれなき…薄情な…冷淡な」「人…女…男」「こころ…心…此処ろ…ここら…この辺の物」「けり…気付きや詠嘆の意を表す」。


 古今和歌集 恋歌五。法師の歌。詞書によると「寛平の御時、御屏風に歌書かせ給ひける時、詠みて書きける」。

 
 歌の清げな姿は、忘れ草、種は何かと思ったら、薄情な人の心だったのだ。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、女を見捨てる種は、薄情な男の此処ろだったのだ。

 

 人麻呂の歌以降、この辺り、恋雑ではなく雑歌対恋歌となっているが気にしない。


 

 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。