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帯とけの新撰和歌集
歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿だけではなく、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生の心情が顕れる。
紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首(二百九十五と二百九十六)
荒磯海の浜の真砂と頼めしは わするゝことの数にぞありける
(二百九十五)
(荒磯海の浜の真砂と頼んだのは、和することの数だったのに、忘れる数だったことよ……荒れ井そ女の端間が、真の子の君とあてにしたのは、和合することの数だったのに、見捨て置く数だったのねえ)
言の戯れと言の心
「ありそ…荒磯…荒れた女」「いそ…磯…岩…女…井そ」「うみ…海…女…産み」「はま…濱…女…端間」「まさご…真砂…真さ子…真のおとこ」「わするゝ…和するる…和む…和合する…忘るる…見捨てる」「かず…数…真砂の数…数え切れない程の数」「ぞ…強調する意を表す」「ける…けり…気付きや詠嘆の意を表す」。
古今和歌集 恋歌五。題しらず、よみ人しらず。女の歌として聞く。
歌の清げな姿は、数多くと頼んだのは、忘れる数ではなかったのに。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、荒れた端間があてにしたのは、和合の数だったのにというところ。
住吉の岸の姫松人ならば 幾世か経しと問はましものを
(二百九十六)
(住吉の岸の姫松、人ならば、幾世経ったかと、問うだろうになあ……済み好しの来しの秘め待つひとならば、われは幾夜へしていたのかと、問うだろうになあ)。
言の戯れと言の心
「すみよし…住吉…所の名…名は戯れる。澄み好し、住み好し、済み好し」「きし…岸…来し…来た…(済むときが)来た…(感の極みが)来た」「はま…濱…女…端間…女」「ひめ…姫…秘め」「松…待つ…女」「人…女」「幾世か経し…どれほど歳月が経ったのか…幾夜か圧し…どれほどの夜、圧していたか」「へし…経し…経過した…圧し…をみなへし…女をおさえていた」「問はまし…何歳になったか老松とならないのかと問いたい…おい(感の極まり)とならないのかと問いたいものだ」「ものを…強い詠嘆の意を表す」。
古今和歌集 雑歌上。題しらず、よみ人しらず。男の歌として聞く。
歌の清げな姿は、姫松が人ならば、幾年経ったかと問いたいものだ。歌は唯それだけではない。
歌の心におかしきところは、秘めて待つひとならば、幾夜「へし」か、どうして「おい」とならないのかと問いたいものだ。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。