帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑(二百九十一と二百九十二)

2012-09-04 00:12:34 | 古典

   



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿だけではなく、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生の心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首
(二百九十一と二百九十二)


 色見えでうつろふものは世の中の 人の心の花にぞありける
                                 
(二百九十一)

 (色見えずに、移ろうものは、世の中の人の心の栄華だったことよ……色もかたちも見えて、衰えゆくものは、夜の中の、男の此処ろの花だったわ)。


 言の戯れと言の心

 「色…色彩…かたち…けはい…色情」「みえで…見えずに…みえて…見えて」「うつろふ…変化する…色変わりする…衰える」「世の中…男女の仲…夜の中」「人…人々…男」「心の花…心の栄華…心時めき栄えている…此処ろの花…此子ろのお花」「子…おとこ」「ろ…親愛の情を示す接尾語」「花…華…栄華…おとこ花」「ける…けり…いま気付いたことを表す…詠嘆の意を表す」。

 

 古今和歌集 恋歌五。題しらず、女の歌。


 歌の清げな姿は、色も形も見えないで衰えるものは、心の栄枯盛衰。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、色も形も、みるみる衰えるものは、此処ろのお花だったことよ、というところ。

 


 あまのすむ里のしるべにあらなくに 浦見むとのみ人のいふらむ
                                 
(二百九十二)

 (海女の住む里の道しるべでありもしないのに、浦が見たいとばかり人々が言う、どうしてかしら……吾間の棲むさ門のしる辺でありはしないのに、うら見むとばかり、あの人がいう、どうしてかしら)。


 言の戯れと言の心

 「あま…海女…吾間…わがおんな」「すむ…住む…棲む」「さと…里…女…さ門…細門」「しるべ…標…標識…しる辺…汁べ…潤む辺り」「あらなくに…ありはしないのに」「うらみむ…浦見む…浦が見たい…裏見む…くり返し見たい…恨みむ…未練が残るだろう」「うら…浦…女…心…裏…おもてうらのうら…くりかえし」「見…目で見ること…覯…媾…まぐあい」「む…意志を表す」「らむ…いま起きている事柄の原因・理由を推量する意を表す」。


 古今和歌集 恋歌四。題しらず、女の歌。


 歌の清げな姿は、わたしは道標じゃないのに、どうして浦見たいと、人が言うのかしら。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、吾間の棲む細門が、汁辺ではないのに、くり返し見たいと、どうして男は云うのかしら、というところ。

 


 この両歌、実は小野小町の歌である。哀れな感じに、強くは無く、悩んでいるように、性愛にかかわる事柄が顕われている。それは、「井かでひろ、食おう」
(二百八十八)などと言う歌と比べれば、わかるでしょう。まがりなりにも、小町の歌の魅力がわかった上で、貫之の批評を聞きましょう。


 「小野小町は、いにしへの衣通姫の流れなり。あはれなる様にて強からず、言はば、よき女の悩めるところあるに似たり」と古今集仮名序にある。

 衣通姫の歌、
 わが背子が来るべき宵なりささがにの 蜘蛛の振る舞い予ねて標しも
 (わが夫が来るべき宵である、ささ蟹の蜘蛛の振る舞い・巣づくりに、予兆が顕れている……わが背の子、来るべき宵なり、細々がにの、わが心雲の振る舞い・すつくろひに、予め、汁しあることよ)。

 言の戯れと言の心

 「くも…蜘蛛…雲…心に煩わしくも湧き立つもの、色情など」「ふるまい…振る舞い…巣作り…巣繕い」「す…巣…洲…女」「しるしも…標があることよ…汁しも…潤んだことよ」「も…感動・詠嘆の意を表す」。



 衣通姫や小町の歌を、上のように聞けば、今の人々も、貫之の歌解釈に少なからず近付くことができる。


 歌の清げな姿だけを眺めていると、見えるのは歌の衣の紋様である。これが歌の修辞法だとして、掛詞、縁語、序詞などと名付けてみても、それらで歌の心を紐解くことはできない。

 

 

伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず

 
新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。