帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰和歌集巻第四 恋雑 (三百十一と三百十二)

2012-09-15 00:58:03 | 古典

   



          帯とけの新撰和歌集



 歌言葉の戯れを知り、紀貫之の云う「言の心」を心得えれば、和歌の清げな姿だけではなく、おかしさがわかる。藤原公任は、歌には、心と、清げな姿と、心におかしきところがあるという。「言の心」を紐解きましょう、帯はおのずから解け、人の生の心情が顕れる。


 紀貫之 新撰和歌集巻第四 恋雑 百六十首
(三百十一と三百十二)


 たが為に引きて散らせる糸なれば 世を経て見れどとる人もなし
                                   
(三百十一)

 (誰の為に、引き散らしてある白糸なのか、世を経て見ているけれど、取り入れる人もいない……誰の為に、娶って散らしている白つゆなのか、世を経て、夜を経て見れど、とりいれる女もいない)。


 言の戯れと言の心

 「ひき…引き…詞の意味を強める接頭語…草花など引き抜く…娶る」「散らす…まき散らす…あちらこちらと分ける…一人の相手ではない」「糸…白く細い水の流れ…白糸…細く弱く薄いおとこ白つゆ」「世を経て…長年にわたって…夜を経て」「見…目で見ること…覯…媾…まぐあい」「とる…取り入れる…取り入れ用いる…取り入れ孕む」「人…人々…女」。


 古今和歌集 雑歌上、吉野の滝を見て詠んだ法師の歌を本歌とする。男の歌として聞く。

 歌の清げな姿は、永遠に流れ続ける滝の景色。歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、我が妻が誰も孕まない男の重大な悩み。

  

 「吉野の滝を見てよめる」法師の本歌を聞きましょう。

 たが為に引きて晒せる布なれや 世を経て見れどとる人もなき

 (誰の為に、ひき晒してる白布なのかな、世を経て見ているけれども、取る人はいない……誰の為に人にさらしてる衣なのかな、夜を経て見ても、はぎとる男はいない)。

 
 悠久の自然の営みを前に、人はただ眺めているだけだ。歌は唯それだけではない。

 誰の為の衣か、多気女の年老いた姿。その衣を、はぎとる男はもういない。

 


 今更にとふべき人もおもほへず 八重むぐらして門させりてへ
                                   
(三百十二)

(今更、訪うであろう男が居るとは思えない、八重葎でわが家の門、閉ざしたと正直に言え……今さら何だ、訪う男がいるとは思えない、八重むぐらでわが古さ門、閉ざしたと本当のこと言え)。


 言の戯れと言の心

 「今更に…今になって改めてかよ…今さら何だ(非難することば)」「八重むぐら…荒廃を象徴する雑草」「かど…門…女」「させりてへ…閉ざしたと言え…人の所為にせず自ら閉門したと言え…わが門は寄る年波に荒廃したので閉ざしたと言え」。


 古今和歌集 雑歌下。「あま」になったという元妻へ、男の返し歌。

 歌の清げな姿は、君が訪れなくなったので難波の三津寺で尼になったという女への返歌。
歌は唯それだけではない。

 歌の心におかしきところは、年とともに八重葎で門は通行不能になったと本当のこと言え。


 古今和歌集 雑歌下。女の歌を聞きましょう。
 われを君なにはの浦にありしかば うきめを見つのあまとなりにき
 
(私を君が、難波のうらだったので、浮き藻を見つの、三津の海女となった……わたしを君が、何かと恨んだので、憂きめを見て、三津寺の尼となったわ)。


 
伝授 清原のおうな

 
 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず


  新撰和歌集の原文は、『群書類従』巻第百五十九新撰和歌による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。