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「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義
平安時代の和歌は、近代以来の現代短歌の表現方法や表現内容とは全く異なるものであった。国文学の解く内容とも大きく隔たった驚くべき文芸であった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観に素直に従って「百人一首」の和歌を紐解く。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。全ての歌に「心」と「姿」と「心におかしきところ」の三つの意味が有り、心は「深く」姿は「清げ」で、心におかしきところは「愛でたく添えられてある」のが優れた歌であるという。定家は上のような歌論や言語観に基づいて「百人一首」を撰んだのである。
藤原定家撰「小倉百人一首」 (三十二) 春道列樹
(三十二) 山川に風のかけたるしがらみは 流れもあへぬもみぢなりけり
(山川に風のかけた柵は、流れきれないもみじ葉だったことよ……山ばの女に、心風のかけた、肢絡みは、汝涸れきれない、飽きの色情だなあ)
言の戯れと言の心
「山…峰…ものの山ば…感喜の極み…賀の極み」「川…言の心は女…おんな」「風…心に吹く風…山ばで吹く激しい心風」「しがらみ…川にしかけた柵…肢絡み…しがみつき」「ながれ…流れ…なかれ…汝涸れ…汝枯れ」「な…汝…親しきもの」「あへぬ…(流れ)きれない…(枯れ・涸れ)きれない…残る思い」「もみぢ…黄葉・紅葉…秋の色…飽きの色…飽き満ち足りの色情」「なりけり…気付き・詠嘆」
古今和歌集 秋歌下、詞書は「志賀の山越えによめる」とある。……「至賀(極上の喜び)の山ば越えに詠んだらしい・歌」ということ。
歌の清げな姿は、晩秋の山川の景色。
心におかしきところは、山ばの嵐の過ぎ去った後、女の心残りな思いに気付いた男の心情。
国学と国文学が曲解し無視した「平安時代の歌論と言語観」は、およそ次のようなことである(以下再掲載)
①紀貫之は『古今集仮名序』の結びに「歌のさま(様)を知り、こと(言)の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と述べた。和歌の「恋しくなる程のおかしさ」を享受するには「表現様式」を知り「言の心」を心得る必要が有る。「歌の様」は藤原公任が捉えている。
②公任は『新撰髄脳』に「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりというべし」と優れた歌の定義を述べた。歌には品の上中下はあっても、必ず一首の中に「心」「姿」「心におかしきところ」の三つの意味があるということになる。これが和歌の表現様式である。
③清少納言は、枕草子の第三章に、言葉について次のように述べている。「同じ言なれども聞き耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉。げすの言葉にはかならず文字あまりたり」。言いかえれば、「聞く耳によって(意味が)異なるもの、それが我々の用いる言葉である。言葉は戯れて有り余るほど多様な意味を孕んでいる。この言語圏外の衆の言葉は(言い尽くそうとして)文字が余っている」となる。これは清少納言の言語観である。
④藤原俊成は古来風躰抄に「(歌の言葉は)浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕はる」という。歌の言葉は戯れて、それぞれ複数の意味を孕んでいるので、歌に公任の言う三つの意味を詠むことは可能である。「言の心」と「言の戯れ」を心得れば顕れる「深き旨」は、煩悩の表出であり歌に詠めば即ち菩提(悟りの境地)であるという。それは、公任のいう「心におかしきところ」に相当するだろう。