帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」 (四十五) 兼徳公 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-02-15 18:05:08 | 古典

             



                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 平安時代の和歌を、
原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観で紐解いている。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。全ての歌に「心」と「姿」と「心におかしきところ」の三つの意味が有り、心は「深く」姿は「清げ」で、心におかしきところは「愛でたく添えられてある」のが優れた歌であるという。定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて「百人一首」を撰んだのである。



 藤原定家撰「小倉百人一首」
(四十五) 兼徳公

 
  (四十五)
 あはれともいふべき人は思ほえで 身のいたづらになりぬべきかな

(愛おしいと言うべきあの人は、我を・思わないままで、わが身が、はかなく恋死してしまうのだろうか……あゝ愛しい、と言うべき女は、もの思えぬままで、わが身の端が、お役に立てず・衰えて逝ってしまうのだろうかあゝ)

 

言の戯れと言の心

「あはれ…情趣がある感動する…哀れ…憐れ…愛おしい」「べき…べし…推量の意を表す…当然・適当の意を表す」「人…あの人…思い人…女」「思ほえで…思えないで(自発の打消し)」「で…ずに…打消しの意を表す…ないのに…原因理由を表す」「み…身…見…覯…媾…まぐあい」「いたづら…はかない…役立たず…むなしく死ぬ」「ぬ…してしまう…完了する意を表す」「かな…感動・感嘆の意を表す…疑問・詠嘆の意をあらわす」。

 

歌の清げな姿は、物越しに逢えたが、それ以上は許さなかった女に、引き下がれない男の思いを訴えた。

心におかしきところは、「あはれ」という思いもさせられなくて、やくたたず、むなしく、身は逝ってしまうのだろかと、おとこが訴えた。

 


 拾遺和歌集 恋五、詞書「もの言ひ侍りける女の後につれなく侍りて、さらにあはず侍りければ」、一条摂政(藤原伊尹・兼徳公・兼家の兄・道長らの伯父にあたる人)。若く官位も低かった頃の歌のようである。
 
 「逢って言葉を交わし情は通じ合ったのに、その後つれなくなって、さらに合わずなったので」詠んで遣った歌。このおとこの歌の「心におかしきところ」が、お相手の女にどのように伝わったか、その結果もわからないけれども、第三者として、今の人々の心に、「何となく艶にも、あはれにも聞ゆる事のあるなるべし(このおとこが・何となく艶っぽくも、哀れにも、愛おしくもあるだろう)」か。時は千年隔たっていても、おとこの生の心が伝わるはずである。これが「歌」であると、定家の父、藤原俊成は言ったのである。