帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」 (五十五) 大納言公任 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-02-25 19:28:40 | 古典

             



                     「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 秘伝となって埋もれ木のように朽ち果てた和歌の奥義は、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、
定家の父藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観によって蘇える。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。歌言葉の意味の多様な戯れを利して、一首に、同時に、複数の意味を表現する様式であった。藤原定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて「優れたりと言うべき」歌を百首撰んだのである。



 藤原定家撰「小倉百人一首」
(五十五) 大納言公任


   (五十五)
 滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ

(滝の音は絶えて久しくなってしまったけれど、素晴しいという・評判だけは、世に・流布して、今も・なお聞こえていることよ……女の・多気の声は、絶えて久しくなってしまったけれど、我が・汝こそ、流れて・汝涸れて、なおも、気超えて・気色の限度過ぎて、いるなあ)


 言の戯れと言の心

「滝…たき…言の心は女…多気…多情」「音…おと…こえ…声」「ぬ…完了したことを表す」「な…名…名声…評判…汝…親しきものをこう呼ぶ…わがおとこ」「こそ…強調」「ながれて…流れて…流布して…なかれて…汝涸れて…おとこ尽き果てて」「なほ…やはり…依然として…汝ほ…汝お…おとこ」「きこえ…きこゑ…聞こえ…気越え…気超え…気力・気色の限度を過ぎ」「けれ…けり…気付き・詠嘆」。

 

歌の清げな姿は、古き滝の跡を見ての感想。

心におかしきところは、尽き果てたありさまから、睦ましくもはげしい和合を彷彿させるところ。

 

拾遺和歌集 雑上、詞書「大覚寺に人々あまたまかりたりけるに、ふるき滝をよみ侍りける」。これは清げな姿の説明と聞く。


 

藤原公任と清少納言はほぼ同年輩である。全く同じ文脈にあって、歌を合作(コラボ)したこともある。その心におかしきところは、帯とけの枕草子(百二)をご覧いただくとして、ここでは、この文脈で「たき」は「滝…多気な女…多情な女」と戯れていたと心得えれば、「枕草子(五十八)滝は」がどのように聞こえるかみてみましょう。

 

滝は、音無しの滝、布留の滝は、法皇の御覧じにおはしましけんこそめでたけれ。那智の滝は、熊野にありと聞くが哀なり。とどろきの滝は、いかにかしがましく、おそろしからん。


 言の戯れを知らず言の心を心得ずに、字義通り読めば、「愛でたけれ」「哀れなり」「恐ろしからん」に、いまひとつ共感できない。主旨も趣旨伝わってこない。それは、この散文の「清げな姿」に過ぎないからである。ここで読みが終わるのは無智も甚だしい。まして下手な文章などと、清少納言を貶めるのは許せない。


 心におかしきところは(……多気な女は、むっつりの多情。古く涸れた多情女は、(花山)法皇が御覧にいらっしゃったのでしよう、それは、愛でたいことよ。無智の多情女は、熊野詣でしていると聞くが哀れである。轟きの多情女は、井かに、かしましくて、おとこども・恐ろしいでしょうね)。