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「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義
秘伝となって埋もれ木のように朽ち果てた和歌の奥義を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、
定家の父藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観で蘇らせる。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。歌言葉の意味の多様な戯れを利して、一首に、同時に、三つの意味を表現する様式であった。藤原定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて「優れたりと言うべき」歌を百首撰んだのである。
藤原定家撰「小倉百人一首」 (五十二) 藤原道信
(五十二) 明けぬればくるるものとは知りながら なほうらめしき朝ぼらけかな
(夜が・明ければ、繰り返し・暮れるものとは知りながら、今宵までの別れ・やはりうらめしい朝のほんのりとした明るさよ……限りが来れば、果てるものとは知りながら、汝お、うらめしい浅洞気かな・空しい)
言の戯れと言の心
「あけ…(夜)明け…期限が来る…限度が来る」「くるる…繰るる…繰り返す(宵が来る)…暮るる…(日が)暮れる…ものの果てが来る」「なほ…猶…やはり…それでも…汝お…わがおとこ」「うらめしき…くやしい…残念な…不満の残る」「あさぼらけ…朝ぼらけ…夜明け方、ほのぼのと明るくなる頃…女との別れの一時…浅洞け…おとこの浅はかではかない空洞情態」「かな…詠嘆の気持を表す」。
歌の清げな姿は、悠久に繰り返される自然の営みの中で、一喜一憂しながら日々を暮らす人のありさま。
心におかしきところは、朝を迎えたおとこの浅く果てて空洞となった気色。
藤原道信は、公任や清少納言より年下の青年、藤原兼家の養子となったので、道長の弟ということになる。若くして歌の才を表したが、二十三歳で夭折した。
藤原定家は「毎月抄」で次のように述べている。(第一首の冒頭にも記した)。
秀逸の歌は「先ず、心深く、たけ高く巧みに言葉の外まで余れる様にて、姿けだかく、詞なべて続け難きが、しかも安らかに聞こゆるやうにて、おもしろく、幽かなる景趣たち添ひて、面影ただならず、気色は然るから、心も、そぞろかぬ歌にて侍り」。
「そぞろかぬ…すずろかぬ…はっきりしないのではない…はっきりと(心が聞く者の心に)伝わる」。難しい字義はこれだけだが、定家の述べる「秀逸の歌」の定義の意味は、今の人々には、文脈が異なるので難解だけれども、ここまで五十首余りの歌の「姿」と「心におかしきところ」を、時には深い心を紐解いてきたので、この歌論のほんとうの意味に少し近づけた気がしないであろうか。歌論を現代語に訳す前に、歌の「深い心」や「姿」が何であるかが心に伝わり、景趣の面影がすばらしい気色にさせてくれて、「心におかしきところ」も、そぞろでなくはっきりと、心に伝わって来たときに、この歌論の意味がわかるのだろう。その時、定家と同じ文脈で歌を聞いていることになる。