帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」 (三十七) 文屋朝康 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-02-06 19:57:08 | 古典

             



                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 平安時代の和歌は、近代以来の現代短歌の表現方法や表現内容とは全く異なるものであった。国文学の解く内容とも大きく隔たった驚くべき文芸であった。
原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観に素直に従って「百人一首」の和歌を紐解く。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。全ての歌に「心」と「姿」と「心におかしきところ」の三つの意味が有り、心は「深く」姿は「清げ」で、心におかしきところは「愛でたく添えられてある」のが優れた歌であるという。定家は上のような歌論や言語観に基づいて「百人一首」を撰んだのである。



 藤原定家撰「小倉百人一首」
(三十七) 文屋朝康


  (三十七) 
白露に風の吹きしく秋の野は つらぬきとめぬ玉ぞ散りける

(白露に風が頻りに吹きつける秋の野は、貫き止めていなかった宝玉が散っていることよ……おとこ白つゆのために、厭き風が心にしきりに吹く飽きのひら野は、貫きとめなかった、玉ぞ・吾が魂よ、散り果てたなあ)

 

言の戯れと言の心

「白露…白つゆ…白汁…おとこ白つゆ」「に…に対して…対象を表す…のために…原因理由を表す」「風…心に吹く風…飽き風、厭き風など」「秋…飽き…飽き満ち足り…厭き…嫌な気分になる、おとこのさが」「野…山ばではないところ…ひら野」「玉…宝玉…白玉…真珠…魂」「ける…けり…詠嘆」

 

歌の清げな姿は、白露が吹き散る秋の野の景色。

心におかしきところは、おとこの魂の散り果てた厭きのひら野の気色。

 


 後撰和歌集に載る一首。秋歌下にある。延喜の御時に歌詠めと召されたので詠んだ歌。


 古今和歌集には、秋歌上に一首だけある。聞きましょう。

 

秋の野におく白露は玉なれや つらぬきかくるくもの糸筋

清げな姿は略す……飽きのひら野に、贈り・置いた白つゆは、我が・魂なのかな、つら抜き、かけたのは、くものような・心の雲の、井門巣路)

 

「秋…季節の秋…飽き…厭き」「野…山ばでは無い所…ひら野」「おく…置く…降りる…送りり置く」「白露…上に同じ」「玉…上に同じ」「かくる…(水など)掛ける…(白つゆ)かける)「くも…蜘蛛…巣を作りひたすら待ち、ものがかかると絡みつく虫…雲…心雲…心に煩わしくも湧き立つもの、情欲など」「の…所属を表す…比喩を表す」「いとすぢ…糸筋…一筋…ゐとすじ…井・門・巣・路…言の心は、すべて女、おんな…井門の性分」「筋…血筋・素質・性分」


 歌の清げな姿は、くもの巣の白露が朝日に輝いている景色。

心におかしきところは、おとこ白つゆが、心雲有り余る井門巣路にかかっているありさま。

 

朝康の父は文屋康秀。古今集仮名序で、その歌を次のように評された人。

「文屋康秀は、言葉巧みにて、そのさま身におはず。言わば、あき人の、良き衣着たらむが如し」。……言葉巧みに歌の姿は清げに作られてある。その清げな姿は、中身に相応しくない、言わば、商人が、良き衣(官位・品格の高い人の着る衣)を着ているようなものである。そのまま、朝康の歌二首の批評にも当てはまるだろう。