帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」 (五十六) 和泉式部 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-02-26 19:24:57 | 古典

             



                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 秘伝となって埋もれ木のように朽ち果てた和歌の奥義は、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、
定家の父藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観によって蘇える。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。歌言葉の意味の多様な戯れを利して、一首に、同時に、複数の意味を表現する様式であった。藤原定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて「優れたりと言うべき」歌を百首撰んだのである。



 藤原定家撰「小倉百人一首」
(五十六) 和泉式部


  (五十六)
 あらざらむこの世のほかの思ひでに いまひとたびの逢ふこともがな

(いつまでも・健在ではないでしょう、この世の他の・あの世での、思いでに、今一度、君に・お逢いしたいの……在りはしないでしよう・けど、この夜の、ほかの・おとかの、思い出のために、井間、一度の合うこと叶えたいの)

 

言の戯れと言の心

「あらざらむ…在らずだろう…有らずでしょう…尽きているでしょう・でも」「ざら…ず…打消しを表す」「この世…今世…この夜…今夜」「ほかの…今世のほかの…あの世の…穂かの…おかの…おとこの」「いま…今…さらに…井間…おんな」「逢ふ…あふ…合う…まぐあい…和合」「もがな…願望を表す」。

 

歌の清げな姿は、心地、常ならぬ、多気の女のお誘いの歌。

心におかしきところは、涸れ尽きたでしょう・けど、この夜の貴身の、思い出のために、もう一度和合とかを叶えたい。

 

後拾遺和歌集 恋三、詞書「ここち例ならず侍りけるころ、人のもとにつかはしける」。「心地例ならず」は、病んで心が沈んだ状態とも、ただ心地が異常に高ぶった情態とも」聞こえる。


 

和泉式部は、まさに、滝の女(多情な人)であった。恋の遍歴を日記に書き、このように歌に詠んだ。歌に顕れる煩悩は即ち菩提(悟りの境地)であると俊成は言う。従って、那智の滝(無知な多情の人)ではなかった。己の多情さは充分に自覚していたのである。

和泉式部の歌を、もう一首、聞きましょう。後拾遺和歌集雑、


 もの思へば沢のほたるもわが身より あくがれ出づる魂かとぞ見る

(もの思いしていれば、沢の蛍も、我が身より、あの人に・憧れ出た、魂かと思う……もの思えば、わが多情の炎も・貴身のお垂るのも、わが身により、飽く涸れ、出づる、魂か・二つの玉かとよ、見ている)


 「ものおもひ…もの思い…悩ましいものの思火」「さは…沢…沼・川・池・渚などと共に言の心は女…多」「ほたる…蛍・夏の虫…情念の炎…ほ垂る…お垂れる」「より…起点を表す…によって…原因・理由を表す」「たま…魂…玉…白玉…黄金の二つの玉」「見る…目で見る…思う…男女が結ばれる」「見…覯…媾…まぐあい」。

 

二首とも、女の深い心・清げな姿・心におかしきところがある優れた歌である。

歌言葉の戯れに深い旨が顕れ、艶(えん)にも「あはれ」にも聞こえる秀逸の歌である。