■■■■■
「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義
秘伝となって埋もれ木のように朽ち果てた和歌の奥義を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観で蘇らせる。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。歌言葉の意味の多様な戯れを利して、一首に、同時に、複数の意味を表現する様式であった。藤原定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて「優れたりと言うべき」歌を百首撰んだのである。
藤原定家撰「小倉百人一首」 (五十三) 右大将道綱母
(五十三) 嘆きつつひとりぬる夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る
(嘆きつつ、独り寝る夜の明くる間は、如何に久しきものと、貴方は・ご承知かしら……無げ気筒、独り、濡れる夜の明ける間は、井かに、久しきものとかは、しるや・きみ)
言の戯れと言の心
「なげき…嘆き…溜息…悲嘆…無げ気…投げ気…投げやり…その気無さそうなさま」「つつ…継続を表す…筒…おとこ…中空…むなしい」「ぬる…寝る…(独り)寝る…濡る…(嘆きの涙で)袖が濡れる…(身のそでが)濡れる」「あくるま…(夜の)明ける間…(冬の夜家の門を)開けるまでの間…(身の門を)開ける間隔」「門…と…おんな」「いかに…如何に…どれ程…井かに…おんなとかに」「井…おんな」「しる…知る…汁」。
歌の清げな姿は、独り寝の、ながながしき夜を嘆いてみせた。
心におかしきところは、「色衰えた妻、夫に質問」という清げな姿に包んで、生々しく表わしたおんなの色情。
拾遺和歌集 恋四。詞書「入道摂政(兼家)まかりたりけるに、門を遅く開けければ、立ちわづらひぬといひて侍りければ」。
「蜻蛉日記・上」によれば、或る夕方、兼家が「内裏に」などと言って出掛けたので、あやしくて、後を付けさせたところ「町の小路」のとある家に泊り給うという。心憂しと思うころ、二、三日経って、暁方に門を叩いた、帰ったのだろうとわかっていたが、開けなかったので立ち去った。追いかけるように、色衰えた菊に付けてこの歌を届けたのである。「菊…きく…質問する…詰問する…草花の言の心は女」。
兼家の言い訳の言い草と返歌を聞きましょう。
手間取っていたのは、用心のために門を固く閉ざしていたためだね、もっともなことだ。開けるまで待っていたのだが、内裏から「とみなる召使(急用の使者)」が来てね、(呼びもどされたのよ、このごろ仕事が忙しのだ)。返歌、
げにやげに冬の夜ならぬ真木のとも 遅くあくるはわびしかりけり
(もっともだ、もっともだ、冬の夜ならずとも、真木の門戸も・身の門も、開けるのに手間取るのも・開けるのが間遠になるのも、わびしいことだなあ)
ことなしびたり(知らぬふりしている・こちらも知らぬふりしている)。それから後もしばしば、「内裏に」などと言って出掛けたのである。
「蜻蛉日記」には、二百六十首ほどの歌がある。これら全てに「清げな姿」だけでなく、上のような「心におかしきところ」があり、そこに人の生の心が表されて有る。定家の父藤原俊成は、それを歌言葉の戯れに顕れる主旨・趣旨で、言わば煩悩であるという。
日本のすばらしい古典文芸の、ほんとうの意味の半分も未だ解き明かされていない。憂うべきことである。その原因の根本は、国文学の奇妙な和歌解釈方法とその解釈にある。