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「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義
平安時代の和歌は、近代以来の現代短歌の表現方法や表現内容と全く異なる驚くべき文芸であった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観に素直に従って「百人一首」の和歌を紐解く。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。全ての歌に「心」と「姿」と「心におかしきところ」の三つの意味が有り、心は「深く」姿は「清げ」で、心におかしきところは「愛でたく添えられてある」のが優れた歌であるという。定家は上のような歌論や言語観に基づいて「百人一首」を撰んだのである。
藤原定家撰「小倉百人一首」 (三十九) 参議等
(三十九) 浅茅生の小野の篠原しのぶれど あまりてなどか人の恋しき
(低い茅が生えている小野の篠原、忍んで居ても、背丈・余って、どうしてか、隠せない・人が恋しいことよ……浅いおとこ極まる、山ばの無い所の、なよなよとしたものの腹のうち、がまんして堪え忍ぶけれど、それに増して、なぜか、ひとが乞いしていた)
言の戯れと言の心
「浅茅…身分など低い男…浅はかな男…薄情なおとこ」「茅…ちがや…すすき、いね、などと共に言の心は男」「ふ…おふ…生える…追う…極まる」「小野…野原の名…名は戯れる。山ばのない小さなひら野…をのの…おとこの」「篠原…しのはら…ささ竹の群生した野原…細ぼそとしたもの…弱々しい心の内」「竹…君…言の心は男」「しのぶ…忍ぶ…隠れる・隠す…堪え忍ぶ」「あまりて…余って…はみ出て…増して」「人…あのひと…女」「恋しき…恋しき・心…体言が省略されてある体言止め、余韻余情がある…乞いしき…乞いした…求めていた」「き…(恋し)の連体形…過去のことを表す…(こい)した」。
歌の清げな姿は、浅はかなぺいぺいの我ではと、忍べども思い余って、あの人が、ますます恋しい。
心におかしきところは、浅いおとこのひら野にて、たえ忍ぶけれど、ますますひとに乞われたなあ。
後撰和歌集、恋歌一、「人につかはしける」歌。参議等は、国守などを歴任し、中納言に次ぐ要職にあった源等(880~951)。清げな姿は、まさに恋文である。あの人の心に・お付きの女房達の心に、深く伝わるように、あえて、おとこのはかないありさまが、添えられてあるようだ。武樫おとこを誇り、我褒めしつつ恋しいなどと、言い寄る男はだめよと進言するのが、もののわかるお付きの女房の役目である。
以下は言いたくはないが言わなければならない。
此の歌の、国文学的解釈は、上の句の篠原までを、「しのぶ」と言う言葉を導き出すための「序詞」で、和歌の修辞技法であるという。連想作用などによって表現作用を深めるものという。「余りてなどか人の恋しき(思いあまるほどなぜか人が恋しい)」と言う恋歌となる。意味不明な野原の描写を「序詞」と名付け解明した立派な学問的解釈であると思いたくなる、そして今の世に蔓延している。「序詞」などという言葉も概念も平安時代の歌論にも歌の評にも用いられていない。平安時代の歌論と言語観を曲解し無視した論理であり解釈である。こうして、歌の「心におかしきところ」を抹消してしまった。おかしくもない、くだらない歌に貶めたのは、国文学的解釈である。
藤原俊成のいう「歌の言葉は、浮言綺語に似た戯れであるが(そこに)深き旨が顕れる」と言う認識に従うべきである。