帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」 (三十五) 紀貫之 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-02-04 19:20:02 | 古典

             



                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 平安時代の和歌は、近代以来の現代短歌の表現方法や表現内容とは全く異なるものであった。国文学の解く内容とも大きく隔たった驚くべき文芸であった。
原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観に素直に従って「百人一首」の和歌を紐解く。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。全ての歌に「心」と「姿」と「心におかしきところ」の三つの意味が有り、心は「深く」姿は「清げ」で、心におかしきところは「愛でたく添えられてある」のが優れた歌であるという。定家は上のような歌論や言語観に基づいて「百人一首」を撰んだのである。



 藤原定家撰「小倉百人一首」
(三十五) 紀貫之


  (三十五)
 人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞむかしの香ににほひける

(人はさあ、心がどうなったか、久しぶりでお互い・知らないけれど、古里は梅の花がなあ、昔の香りのままに色美しいことよ……あなたのことは、井さも、心も知らないけれど、古・振る、さ門は、おとこ花ぞ、昔の・武樫の、色香に匂ったなあ)


言の戯れと言の心

「人…宿の主人…女…馴染みの女…古妻」「いさ…さあ、どうだか…ゐさ…井さ」「井…おんな」「さ…接尾語…語意を強める」「も…もまた…もう一つ添加する意を表す」「しらず…知らない…わからない」「ふるさと…古里…昔馴染みのさと…古妻」「里…言の心は女…さ門…井に同じ」「さ…接頭語」「花…木の花…梅の花…言の心は男…はな…先端…身の端…おとこ」「ぞ…(はなを)強く指示する…(花が一義な意味では無いことを)強調する」「むかし…昔…武樫…強く堅い」「か…香…香り…色香」「にほひ…にほふ…色美しく映える…匂うような艶やかなさま…色香溢れるさま」「ける…けり…気付き…感嘆・詠嘆」

 


 古今和歌集 春歌上、詞書は「初瀬に詣づるごとに宿りける人の家に、久しく宿らで、ほどへて後にいたれりければ、かの家のあるじ、かくさだかになむ宿りはある、と言ひいだしてはべりければ、そこに立てりける梅の花を折りてよめる」とある。歌の「清げな姿」の説明である。

包んである最も外側の衣は、定宿の主人が、「長らくお泊り頂いていないので、心配いたしておりました。ええ、わたしどもは、おかげさまで、このように確り繁盛させていただておりまして」などと言うので、詠んで遣った歌。「里・家の言の心は女」「梅の言の心は男」と心得ると、衣の内が見えてくる。

 

歌の清げな姿、其の一、御無沙汰を、軽く皮肉る定宿の主人に、心変わりなしと、梅の花を贈った。

歌の清げな姿、其の二、昔馴染みの家の女主人に、我が思いの色香は昔と変わりませんぞと言った。

心におかしきところは、貴女も井の心も知らないけれど、ふるさ門に、おとこ端ぞ、武樫の色香に匂ったことよ。

 

妖艶と言うのか、おとこの匂いさえ漂う歌である。「心におかしきところ」が「玄之又玄」に包まれて有る。

 


 近代以来の国文学的解釈は、外側の衣を着た歌の姿しか見えていない。平安時代の「歌のさま」を知らず「言の心」を心得ていないからである。


 或る明治の国文学者の解釈は「久し振りにて来たれば、主人は心が変りしか、変らぬかの程も、何とも知られぬヮィ、しかし、昔馴染の所は、さすがに、馴染甲斐に、この梅の花がサ、相変わらず、昔のまゝの香に匂うたヮィとなり」

現代の古語辞典の解釈、「人は、さあどんなものだか、その心のうちはわかりません。けれども、なつかしいこの場所では、花が昔と変わらないすばらしい香りで咲きにおって、わたしを迎えてくれています」

別の古語辞典の解釈「あなたのほうは、さあ、どうだか、お心のうちはわかりません。ひょっとしたらお心も変わってしまったかもしれませんが、昔なじみのこの土地では、梅の花だけは昔のままのかおりで咲き匂っていることです」

 

一千年後の人々は、この歌を、このように聞く耳しか持たないので、「心におかしきところ」を聞けば青天の霹靂だろう。同じく、貫之をはじめ平安時代の人々は、上のような解釈を聞けば、寝耳に水、驚き、呆れ返るだろう。

  古今集仮名序の冒頭の言葉、
 世の中に在る人、こと(言・事)、わざ(行為・業・ごう)繁きものなれば、心に思う事を、見る物、聞くものに付けて、言い出せるなり。

素直に聞けば、歌は心に思うことの表出であることは明らかなのに、それを、付けられた「見る物(景色・風物・人の姿)」だけに目を奪われているのはなぜだろうか。人の心根を高度な方法で詠んだ歌であることに気付くべきである。