帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」 (五十四) 儀同三司母 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-02-24 19:29:41 | 古典

             



                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 秘伝となって埋もれ木のように朽ち果てた和歌の奥義は、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、
定家の父藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観によって蘇える。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。歌言葉の意味の多様な戯れを利して、一首に、同時に、複数の意味を表現する様式であった。藤原定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて「優れたりと言うべき」歌を百首撰んだのである。



 藤原定家撰「小倉百人一首」
(五十四) 儀同三司母


  (五十四) 
忘れじの行く末まではかたければ 今日を限りの命ともがな

(忘れないが、行く末までは難しいのならば、今日を限りの命であって欲しい……見捨てないが、逝く末までは、難しいのならば、京を限りの・絶頂を限りの、和合の・命、共に果てたいの)


 言の戯れと言の心

「忘れ…忘却…見捨てる…見限る」「見…結婚…覯…媾…あぐあい」「じ…打消しを表す…ない」「の…が」「ゆくすゑ…行く末…逝く末」「まで…帰着点・到達点を示す…達成点を示す」「今日…けふ…京…山の頂上…山ばの頂点…感の極み」「命…人の生命…ものの命…和合の命」「とも…であろうとも…共…一緒」「がな…願望を表す」。

 

歌の清げな姿は、「わすれない」というお心が果てるならば、その日限りのわが命であって欲しい。

心におかしきところは、「見すてない」というお心が、山ばの極み越えてまで続かぬならば、京にて共にいけに身を投げたい。

 

新古今和歌集 恋三、詞書「中関白(道隆)かよひ初め侍りけるころ」。



 儀同三司母(藤原道隆の妻・伊周や定子の母)。伊周が流罪の後に復帰した官職の名が儀同三司(准大臣)だった。見目麗しいかどうかは知らないが、才たけた、男まさりの、風変わりな人だったようである。「枕草子」にも登場するが、清少納言にとっては遠い存在だったようである。

歌の様を知り言の心を心得た人の歌である。普通の言葉が並んでいるのに、女性の心が、その情念までも、歌詞の戯れに顕れるように詠まれてある。歌の言葉は何の障りもなく耳に入ってきて「艶」にも「あはれ」にも聞こえる。平安時代の誰の歌論にも適った優れた歌である。

 

今の人々は、「けふ…今日…きゃう…京…山ばの頂上…有頂天…感の極み」などという戯れの原因・理由を示せと言いたくなるだろうが、ないのである。ただそうと心得て他の幾つかの歌で同じ意味に用いられているのを知れば、あらためてそうと心得るだけのことである。たぶん紀貫之に聞いても、ただ、心得る人になれと言うだろう。


 

「平安時代の歌論と言語観」は、およそ次のようなことである(以下再掲載)


 ①紀貫之は『古今集仮名序』の結びに「歌のさま(様)を知り、こと(言)の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と述べた。和歌の「恋しくなる程のおかしさ」を享受するには「表現様式」を知り「言の心」を心得る必要が有る。「歌の様」は藤原公任が捉えている。

②公任は『新撰髄脳』に「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりというべし」と優れた歌の定義を述べた。歌には品の上中下はあっても、必ず一首の中に「心」「姿」「心におかしきところ」の三つの意味があるということになる。これが和歌の表現様式である。

清少納言は、枕草子の第三章に、言葉について次のように述べている。「同じ言なれども聞き耳異なるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉。げすの言葉にはかならず文字あまりたり」。言いかえれば、「聞く耳によって(意味が)異なるもの、それが我々の用いる言葉である。言葉は戯れて有り余るほど多様な意味を孕んでいる。この言語圏外の衆の言葉は(言い尽くそうとして)文字が余っている」となる。これは清少納言の言語観である。

藤原俊成は古来風躰抄に「(歌の言葉は)浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕はる」という。歌の言葉は戯れて、それぞれ複数の意味を孕んでいるので、歌に公任の言う三つの意味を詠むことは可能である。「言の心」と「言の戯れ」を心得れば顕れる「深き旨」は、煩悩の表出であり歌に詠めば即ち菩提(悟りの境地)であるという。それは、公任のいう「心におかしきところ」に相当するだろう。


 上のような歌論と言語観を、江戸の国学と近代の国文学は曲解し無視したのである。




「小倉百人一首」 (五十三) 右大将道綱母 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-02-23 19:18:50 | 古典

             



                     「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 秘伝となって埋もれ木のように朽ち果てた和歌の奥義を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、
定家の父藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観で蘇らせる。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。歌言葉の意味の多様な戯れを利して、一首に、同時に、複数の意味を表現する様式であった。藤原定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて「優れたりと言うべき」歌を百首撰んだのである。



 藤原定家撰「小倉百人一首」
(五十三) 右大将道綱母


  (五十三) 
嘆きつつひとりぬる夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る

(嘆きつつ、独り寝る夜の明くる間は、如何に久しきものと、貴方は・ご承知かしら……無げ気筒、独り、濡れる夜の明ける間は、井かに、久しきものとかは、しるや・きみ)

 

言の戯れと言の心

「なげき…嘆き…溜息…悲嘆…無げ気…投げ気…投げやり…その気無さそうなさま」「つつ…継続を表す…筒…おとこ…中空…むなしい」「ぬる…寝る…(独り)寝る…濡る…(嘆きの涙で)袖が濡れる…(身のそでが)濡れる」「あくるま…(夜の)明ける間…(冬の夜家の門を)開けるまでの間…(身の門を)開ける間隔」「門…と…おんな」「いかに…如何に…どれ程…井かに…おんなとかに」「井…おんな」「しる…知る…汁」。

 

歌の清げな姿は、独り寝の、ながながしき夜を嘆いてみせた。

心におかしきところは、「色衰えた妻、夫に質問」という清げな姿に包んで、生々しく表わしたおんなの色情。

 

拾遺和歌集 恋四。詞書「入道摂政(兼家)まかりたりけるに、門を遅く開けければ、立ちわづらひぬといひて侍りければ」。

「蜻蛉日記・上」によれば、或る夕方、兼家が「内裏に」などと言って出掛けたので、あやしくて、後を付けさせたところ「町の小路」のとある家に泊り給うという。心憂しと思うころ、二、三日経って、暁方に門を叩いた、帰ったのだろうとわかっていたが、開けなかったので立ち去った。追いかけるように、色衰えた菊に付けてこの歌を届けたのである。「菊…きく…質問する…詰問する…草花の言の心は女」。

 

兼家の言い訳の言い草と返歌を聞きましょう。


 手間取っていたのは、用心のために門を固く閉ざしていたためだね、もっともなことだ。開けるまで待っていたのだが、内裏から「とみなる召使(急用の使者)」が来てね、(呼びもどされたのよ、このごろ仕事が忙しのだ)。返歌、
  
げにやげに冬の夜ならぬ真木のとも 遅くあくるはわびしかりけり

(もっともだ、もっともだ、冬の夜ならずとも、真木の門戸も・身の門も、開けるのに手間取るのも・開けるのが間遠になるのも、わびしいことだなあ)

ことなしびたり(知らぬふりしている・こちらも知らぬふりしている)。それから後もしばしば、「内裏に」などと言って出掛けたのである。

 


 「蜻蛉日記」には、二百六十首ほどの歌がある。これら全てに「清げな姿」だけでなく、上のような「心におかしきところ」があり、そこに人の生の心が表されて有る。定家の父藤原俊成は、それを歌言葉の戯れに顕れる主旨・趣旨で、言わば煩悩であるという。

 

日本のすばらしい古典文芸の、ほんとうの意味の半分も未だ解き明かされていない。憂うべきことである。その原因の根本は、国文学の奇妙な和歌解釈方法とその解釈にある。


「小倉百人一首」 (五十二) 藤原道信朝臣 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-02-22 19:30:33 | 古典

             



                     「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 秘伝となって埋もれ木のように朽ち果てた和歌の奥義を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、

定家の父藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観で蘇らせる。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。歌言葉の意味の多様な戯れを利して、一首に、同時に、三つの意味を表現する様式であった。藤原定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて「優れたりと言うべき」歌を百首撰んだのである。


 
藤原定家撰「小倉百人一首」 (五十二) 藤原道信


  (五十二)
  明けぬればくるるものとは知りながら なほうらめしき朝ぼらけかな

(夜が・明ければ、繰り返し・暮れるものとは知りながら、今宵までの別れ・やはりうらめしい朝のほんのりとした明るさよ……限りが来れば、果てるものとは知りながら、汝お、うらめしい浅洞気かな・空しい)

 

言の戯れと言の心

「あけ…(夜)明け…期限が来る…限度が来る」「くるる…繰るる…繰り返す(宵が来る)…暮るる…(日が)暮れる…ものの果てが来る」「なほ…猶…やはり…それでも…汝お…わがおとこ」「うらめしき…くやしい…残念な…不満の残る」「あさぼらけ…朝ぼらけ…夜明け方、ほのぼのと明るくなる頃…女との別れの一時…浅洞け…おとこの浅はかではかない空洞情態」「かな…詠嘆の気持を表す」。

 

歌の清げな姿は、悠久に繰り返される自然の営みの中で、一喜一憂しながら日々を暮らす人のありさま。

心におかしきところは、朝を迎えたおとこの浅く果てて空洞となった気色。


 

藤原道信は、公任や清少納言より年下の青年、藤原兼家の養子となったので、道長の弟ということになる。若くして歌の才を表したが、二十三歳で夭折した。

 

藤原定家は「毎月抄」で次のように述べている。(第一首の冒頭にも記した)。

秀逸の歌は「先ず、心深く、たけ高く巧みに言葉の外まで余れる様にて、姿けだかく、詞なべて続け難きが、しかも安らかに聞こゆるやうにて、おもしろく、幽かなる景趣たち添ひて、面影ただならず、気色は然るから、心も、そぞろかぬ歌にて侍り」。

「そぞろかぬ…すずろかぬ…はっきりしないのではない…はっきりと(心が聞く者の心に)伝わる」。難しい字義はこれだけだが、定家の述べる「秀逸の歌」の定義の意味は、今の人々には、文脈が異なるので難解だけれども、ここまで五十首余りの歌の「姿」と「心におかしきところ」を、時には深い心を紐解いてきたので、この歌論のほんとうの意味に少し近づけた気がしないであろうか。歌論を現代語に訳す前に、歌の「深い心」や「姿」が何であるかが心に伝わり、景趣の面影がすばらしい気色にさせてくれて、「心におかしきところ」も、そぞろでなくはっきりと、心に伝わって来たときに、この歌論の意味がわかるのだろう。その時、定家と同じ文脈で歌を聞いていることになる。


「小倉百人一首」 (五十一) 藤原実方朝臣 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-02-21 19:16:01 | 古典

             



                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義


 
 秘伝となって埋もれ木のように朽ち果てた和歌の奥義を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、
定家の父藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観で蘇らせる。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。歌言葉の意味の多様な戯れを利して、一首に、同時に、三つの意味を表現する様式であった。藤原定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて「優れたりと言うべき」歌を百首撰んだのである。



 藤原定家撰「小倉百人一首」
(五十一) 藤原実方朝臣


   (五十一)
 かくとだにえやは伊吹のさしも草 さしも知らじなもゆる思ひを

(こうまでに、まさかなろうとは、伊吹産のも草、これほどとは知らなかったよ、わが・燃える思い火を……掻くとだね、こうもなれるのだろうか、井吹きのもえる女、それほどとは知らなかったなあ、あなたの・もえる思い火を)


 言の戯れと言の心

「かく…斯く…このように…掻く…かきわける…わけ入る」「だに…までも…強調する意を表す」「えやは…できるだろうか…なるだろうか」「いぶき…伊吹…さしも草の産地の名…名は戯れる。息吹き、言い吹き、井吹き」「井…おんな」「さしも草…よもぎ…もぐさ…草の名…名は戯れる。もえる女、くすぶる女、さしも女」「草…言の心は女」「さしも…然しも…これほどとも…それほどとも」「じ…否定的推量を表す…(知ら)ないだろう」「な…感動・詠嘆を表す…なあ…確認・念押しを表す…だね」「思ひ…思い…わが思い火…あなたの思い火」「を…対象を表す…感動・詠嘆の気持を表す」。

 

歌の清げな姿は、伊吹産のも草の効きめに寄せた、我が燃える思い。

心におかしきところは、思いもよらない、燃えるおんなのいぶき、おとこの感動。

 
  後拾遺和歌集 恋一、詞書「女にはじめてつかわしける」。初めての共寝の翌朝、使いの者に届けさせた文、これ以上の後朝(きぬぎぬ)の歌があるだろうか。女の心に直に伝わる男の心根、消えたさしも草も又燃えだすだろう。

  藤原実方は、行成や清少納言らと、ほぼ同じ時代を生きた。朝臣と呼ばれて後に地方の国に転出した。

 
平安時代の歌の文脈に在る人は、藤原定家だけでなく誰でも秀逸の歌と讃えるだろう。

 

国文学的解釈は、ここに書きだす気にもならない。まして、初句からさしも草までは、「さしも」にかかる「序詞」などと解くのは、名歌を「くだらない歌」に貶めるだけである、と言っても、今の世の全てのテキストはこの解釈で占められており、当ブログの解は「四面楚歌」の状態にある。


「小倉百人一首」 (五十) 藤原義孝 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-02-20 19:22:00 | 古典

             

                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義

 秘伝となって埋もれ木のように朽ち果てた和歌の奥義を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観で蘇らせる。公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」という。歌言葉の意味の多様な戯れを利して、一首に、同時に、三つの意味を表現する様式であった。藤原定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて「優れたりと言うべき」歌を百首撰んだのである。



 藤原定家撰「小倉百人一首」
(五十) 藤原義孝


   (五十)
 きみがため惜しからざりし命さへ 長くもがなと思ひけるかな

(恋いしい・きみのためならば、惜しくなかった命さえ、長く在って欲しいと、今朝は・思ったことよ……乞う・きみのためならば、惜しくもなかった、わが小枝の・命さえ、長く在って欲しいと思ったなあ)


 言の戯れと言の心

「きみ…貴女…貴女」「命さえ…命でさえ…命・小枝…わが身の枝の命」「さへ…でさえ…さえ…小枝…身の枝…謙遜しておとこをこう呼ぶ」「長くもがな…長く在って欲しい」「もがな…願望を表す」「けるかな…気付き・感動を表す…(現実ははかないものだなあ)詠嘆を表す」。

 

歌の清げな姿は、愛しい人を妻として逢い合えば、世界が変わって見えた、男の素直な思い。

心におかしきところは、求める妻のため、執着の無かった我がおとこの命、長らえて欲しいと思ったことよ。

 

後撰和歌集 恋二 「女のもとより帰りてつかはしける」。藤原義孝は二十一歳で少将にて亡くなった。子の藤原行成は数歳の頃である。この「女」は行成の母かもしれない。義孝は清原元輔らと交流があったという。行成は清少納言と親交があった。


 

歌の「心におかしきところ」こそが歌の命であって「清げな姿」に包まれてある。「女」の心には直に伝わって、さらに、あはれ(哀れ・愛しい)と思わせただろう。

 

「清げな姿」で包むことは、景色や物に喩えることなく思いを述べる「正述心緒」の歌ではとくに難しい。このように歌を聞く文脈に立ち入れば、清少納言枕草子(第九十五)の次のような言葉がよく理解できるだろう。


  つゝむことさぶらはずは、千の歌なりとこれよりなん、いでまうでこまし。

(父元輔の名を汚さぬように・慎むことが要らないならば、千の歌なりとも、今からでもですね、詠み出せましょう……清げな姿に・包むことが要らないならば、千の歌なりとも、今からでも、出てまいりましょう)。


 このとき清少納言は、元夫が地方の国に去って行ったことなどに加えて、主家への道長の仕打ちに対する怒りなど、千の心緒を抱えていたのである。数日前、うの花盛りのうし車を、土御門(道長邸)にぶち込む代わりに、本物の大内裏の土御門にぶち込んだが、それくらいでは治まらないと言っているようである。定子中宮は、そのような清少納言の心の裏まで百もご承知であられたようである。