国学とは?
それまでの「四書五経」をはじめとする儒教の古典や仏典の研究を中心とする学問傾向を批判することから生まれ、日本の古典を研究し、儒教や仏教の影響を受ける以前の古代の日本にあった、独自の文化・思想、精神世界(古道)を明らかにしようとする学問である。
江戸時代中期、元禄のころの歌学者契沖が創始したとされるが、後述のように、その源流は江戸時代の初期から既に現れ始めていた。
なお、「国学」の語が使われるようになったのは、契沖を学んだ荷田春満の頃からである。
国学の方法論は、国学者が批判の対象とした伊藤仁斎の古義学や古文辞学の方法論より多大な影響を受けている。
国学は、儒教道徳、仏教道徳などが人間らしい感情を押し殺すことを批判し、人間のありのままの感情の自然な表現を評価する。
和学講談所
和学講談所とは、寛政5年(1793年)、塙保己一によって創立された、和学の研究・教育機関です。
和学とは、国学ともいって、日本独自の精神、特に外国からの仏教や儒教などの影響を受けない日本古来の文化、日本人のこころを研究する学問を言います。
当時の国学者たちは、古語や古典文学の研究に忙しく、日本の歴史や律令を研究する余裕がありませんでした。
その状況を心配した保己一は、研究と教育の役割を担う「和学講談所」を自ら設けようと考えたのです。
保己一の後継者である息子の塙次郎のときには、小笠原諸島の帰属問題がアメリカ、イギリス、ロシアなどとの間に持ち上がります。
このとき、幕府の求めに応じて日本の領土であることを証明する歴史資料を提供したことにより、小笠原諸島が日本の領土であることが国際的に認められたのです。「塙保己一と小笠原諸島」
和学講談所の資料は、東京大学史料編纂所に引き継がれています。
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
塙保己一は、武州児玉郡保木野村(現在の埼玉県)で生まれた百姓の子です。
幼少から病弱だった塙保己一は、5歳の時に病を患ったのが原因で、7歳の時に失明しました。
修験者に名前と生まれ年を変えたら目が治ると言われ、名や生まれ年を変えましたが視力は戻らず、手のひらに指で字を書いてもらい文字を覚えました。
15歳で江戸に行き、17歳で盲人の職業団体である「雨富須賀一検校」に入門しました。
雨富検校で、国学や和歌、漢詩や法律、医学など様々な学問を学ぶと、37歳で「検校」と言われる盲人の役職の最高位となりました。
そして塙保己一は、有名な古典全集を編集した「群書類従」を刊行しています。
これは簡単にいうと、日本の古い貴重な文書が焼けたり紛失したりしても後世に伝えられるように全集として印刷することです。
古代から江戸時代初期までの史書や文学作品、計1273種を編集していて国文学や歴史学などの研究に現在も多大な貢献をしています。
四十年近くの歳月をかけて完成した群書類従は、現在日本の重要文化財に指定されています。
ヘレンケラーの恩人って?
ヘレンケラーとは、アメリカ合衆国の社会福祉活動家であり視覚・聴覚の重複障害者です。
彼女も2歳の時に病を患ったせいで視覚と聴覚を失いました。
見ることも出来ず、聞くことも出来ず、話すことも出来なくて生きることに絶望していた時に母から「塙保己一を手本にしなさい」と言われ目標としていました。
彼が盲目ながら不屈の精神で生き、努力を積み重ねて行った偉業が彼女に生きる力を与えてくれたのです。
1937年に初めて来日したヘレンケラーは、塙保己一の学問を継ぐ研究所である温故学会を訪問し「私は塙先生を知ったおかげで障害を克服することが出来ました」と塙保己一の像や使用した机に触れて感謝の言葉を述べたそうです。