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 オルタナタィヴ・ショップがつなげた美しくも儚い恋

2018-05-29 | 【 かみしばい講 】





    (この小説はフィクションです。)




 スーパーのデータ処理室の事務員をしていた佳代は現在34歳。

 ある時、ネットで検索をしていた時に アレッ と気になるサイトを見つけました。

 何かどこかで聞いたような話が載っている。

 見覚えのあるようなサイトだ。




 佳代は既に結婚をしていましたが子供はいません。


 佳代には写真大学に通っていた頃に別の男性とつきあっていた時期がありました。


 佳代は中央線沿線の国立で育ちました。


 高校時代にある本で東南アジアの写真を見てとても感銘を受けて自分もあんな写真をとってみたいと思い、写真大学に入学しました。



 佳代は大学に入ると何の為に勉強するべきか、生きるべきか、何の写真を撮るべきかというアイデンティティーの問題にぶち当たりました。



 佳代はサークル活動で写真大学のOB や OG と飲み会などで話し合う機会がありました。


 それらの先輩達はマスコミ関係や企業などのカメラマンとして働いていた人達でした。


 先輩達は皆、企業や社会の要求と自分が本当に撮りたい写真とのギャップに悩んでいました。


 逆に自分が本当に撮りたい写真を撮って個展を開催したりしている先輩はそれだけでは生活していけませんでした。



 佳代は世の中や人生の現実に突き当たりました。



 大学の夏休みや春休みに写真を撮るために東南アジアへ旅行に行きました。


 そこで東南アジアの上座仏教に興味を持つようになりました。


 ところがそんな穏やかで仏教的に見える東南アジアにも資本主義の悪影響が及びつつある事を知りました。



 中央線沿線の阿佐ヶ谷の商店街にとある オルタナティヴ・ショップ がありました。

 そこはヒッピー・ムーブメントの流れを汲んでいた人々が経営していた店でした。



 その店は、現代資本主義社会の弊害を逃れる為の生き方を追求するというテーマの書籍や音楽や映画やグッズが揃えられていました。


 資本主義の弊害を批判する左翼やヒッピーイズムや第三世界などの書籍などが揃っていました。

 
 資本主義に反対する右翼や宗教などの書籍も置かれていました。



 アジアやアフリカなどの第三世界のグッズやヒッピー風の服装なども並べられていました。


 イベント・コーナーもありワークショップなども催されていました。


 資本主義の弊害を感じていた佳代は、写真大学の授業の空き時間にこのオルタナティヴ・ショップによく立ち寄って、資本主義以外の生き方を模索したりしていました。


 佳代は普段の服装もそのオルタナティヴ・ショップや中央線沿線の古着屋などで買ってきたヒッピー・オルタナティヴ・第三世界系の格好をよくしていました。



 ある日、そのショップにセミナーの広告のポスターが貼ってあり、チラシを取りました。


 そのセミナーとは異種イデオロギー交流会と称してあり、資本主義にとって代る生き方・ライフスタイルなどを模索している人々が思想主義主張を問わず集まってアイディアを交流しあうという催しでした。


 資本主義の弊害を知り、他に生き方はないかと考えていた佳代は少し警戒心が働きましたが興味を持って参加してみる事にしました。



 その交流会は一ヶ月間に及び毎週週末に開催されました。


 佳代はそこで淳吾という同じ志とヴィジョンを持っていた男性と知り合ったのです。


 淳吾は佳代の一年上の世代でした。


 他の大学の国文科に通っていました。


 
 淳吾は地方都市の出身で都内の大学に通っていました。

 淳吾は中学生の頃は全く普通の生徒でしたが、高校になるにつれて社会への反逆性が芽生え始めました。

 家系は左翼がかっていて赤旗新聞などをとっていました。

 
 高校の頃には学校の校風やカリキュラムなどに矛盾や反発を感じ始めました。


 ですが淳吾は反逆性はあっても現実的計算がまさる理性的な人間だったので、心の中の反逆性は秘めて見た目は良識的一般市民を装っていました。

 反逆性を表に出したら現実的に損をしてしまうと考えていたのです。


 大学は色々受験してたまたま受かった国文科へと進学しました。


 大学に入って現実社会を垣間見るようになると、今の日本社会は金銭と効率性だけが最重要課題として追求されていると感じるようになり、諸悪の根源は資本主義の行き過ぎにあるという結論にたどり着きました。


 社会や家庭の崩壊や人間関係の希薄化も文化の劣化・低劣化も金銭と利便性のみが追及されていて人間性や倫理観が全く省みられない社会がおかしいのだと感じるようになりました。


 大学の国文科ではまだ資本主義に毒されていなかった頃の日本の先祖の古来の心や、大正デモクラシーの頃の社会主義色の強い作家達を探求模索するようになりました。



 そうこうしている内に阿佐ヶ谷の オルタナティヴ・ショップ を見つけて大学の合間に立ち寄るようになりました。


 そこには資本主義社会の行きすぎによる弊害を糾弾批判し、できるだけ資本主義に染まらずに生活する方策を模索するような書籍が並べられていました。

 
 ですがそのオルタナティヴ・ショップでは資本主義の行きすぎを批判していましたが、かといってテロや破壊行為などの手段は否定されていました。
 


 資本主義社会をテロや破壊行為によって否定するのではなく、あくまでどのようにして資本主義に染まらないで生活していけるかをテーマとしていたのです。


 
 淳吾はオルタナティヴ・ショップに通っている内に、現代日本の資本主義社会に対する反逆性が育っていきました。

 淳吾は将来はありきたりな職業ではなく、反資本主義をテーマとする社会啓蒙活動家になろうとするヴィジョンを抱くようになっていきました。

 反資本主義といってもテロ・破壊によってではなく地道な社会活動や文筆活動などによる反抗であります。


 テロ・破壊行為に走った左翼の先達達は皆悲惨な末路をたどっている。

 死んだり投獄されたらそれこそ資本家や経営者達にとって益々都合のいい社会をもたらす事となってしまうだけだ。


 マイナーでも地味でもいいから長期的に資本主義に反対・異議を表明し続ける事こそまさに資本主義者達にとって目障りな活動となる。


 資本主義者達にとって目障りな活動を長期的に続ける方が、テロや破壊行為などより遥かに資本主義に反対する為には有効な活動なのだ!



 そんな中で大学三回生の前期の頃、例のオルタナティヴショップで異種イデオロギー交流会のポスターを見かけたのです。

 淳吾はすぐさまに参加の申し込みをしました。



 その時に佳代と知り合ったのです。

 佳代はその時、大学の二回生でした。


 そのセミナーには12人の人が集まりました。


 学生は6人でした。

 残りは社会人でした。


 はじめに主宰者はあいさつをしました。


 「 現在全世界を席巻している資本主義は間違っている。

 極一部の経営者に富が集中するだけで、大部分を占める庶民は衣食住の確保さえままならない。


 かといって革命を起こすという訳にもいかない。


 そこで私達は現在の資本主義社会の中で、出来る限り資本主義に染まらない生活を模索していくべきである! 」




 参加者達は皆自己紹介をしました。



 淳吾と佳代は座談会をしていると、まるで離ればなれで育った双子が再び再会したような気分になりました。



 淳吾と佳代は見た目も感性も似ていて、前世は魂が同じだったんじゃないかと思う程でした。


 セミナーは結局一ヶ月の4回で終わり、最終日にはカラオケ居酒屋で歌を歌いながらオルタナティブ談義をしました。


 最後には参加者全員の連絡先が載った紙が配られました。



 カラオケ居酒屋で撮りあった写真を郵送で交換しあいました。


 淳吾は佳代が写った写真を佳代に郵送しました。


 佳代は淳吾に電話をかけました。

 「 この前の写真、送ってくれてありがとう。 」



 これがキッカケで二人の交際は始まりました。




 二人は喫茶店などでオルタナティヴ談義をしました。

 理想的な社会やヴィジョンなどを語り合いました。



 淳吾は国文科や左翼的な視点から資本主義の行き過ぎを批判し、理想的な社会像を模索する話をしていました。


 佳代は大学の夏休みや冬休みには東南アジアに撮影旅行しに行き、同時に上座仏教の文献や情報を収集しました。


 英語やタイ語、カンボジア語、ベトナム語などのパンフレットなどを収集しました。


 タイ語、カンボジア語やベトナム語などの文献は解読できませんでした。


 ですが辞書をひきながらどんな内容なのかを推測していきました。

 
 それらを淳吾に話したりしていました。


 淳吾は日本古来の理想としていた和風社会を佳代に説きました。





 淳吾は大学の授業に飽きたらない思いをするようになりました。


 淳吾は社会啓蒙家となるつもりだったのでゼミや就職活動をするつもりなど全くありませんでした。


 大学の教授達とは考えも合わず、他の学生達が自分の意見を曲げて教授達の意見に合わせているのも、教授達が自分達が信じてもいずに実践してもいない学科の授業にも反逆心がもたげてきました。


 淳吾は馬鹿正直な性格で日本社会への反逆心を抑えきれなくなり、良識的な一般市民を装う事に限界を感じるようになりました。


 ついには大学に行かなくなってしまいました。




 
 佳代は淳吾に上座仏教の教義を説明しました。


 強力な功徳を積めばは強力な果報をもたらす。  病的な功徳は病的な果報をもたらす。


 前世  現世  来世 の行いと生まれ変わりの関係について。


 功徳を積む作法。   お経を唱える方法。


 神社仏閣や仏像を整備すればいい功徳になる。

 
 僧侶にお布施をすればいい果報がある。


 お経を読めば知恵がつき賢くなる。


 公共土木事業をすればいい功徳となる。


 仏像に花を捧げるといい功徳となる。




 病的な功徳とは、例えば親を怒鳴ったり罵ったりする事。

 
 貧困者や障害者を邪険に扱うなど・・・

 




 佳代の修行方法はヴィパッサナーと呼ばれる東南アジアで広く普及している瞑想方法でした。



 佳代の方は、資本主義社会に反発を感じながらも写真大学の授業は出て、課題やレポートなども真面目に提出していました。



 ところが佳代は写真大学4回生になると卒業後を決めなければならなくなりました。

 
 両親に淳吾との交際などを話し、卒業後どうするべきかを相談しました。


 佳代の両親は「 理想的な社会なんていってもな、理想だけじゃ飯なんか食っていけないんだよ。 そんなドン・キホーテみたいな男と付き合ったってお金がなかったら生活していけないじゃないか。」と佳代に言いました。


 佳代はその事を淳吾に言いました。


 淳吾も「 佳代の両親の言う通りだよ。

 俺達同じヴィジョンを持っていて愛し合っていたって、俺みたいなコミュ障の社会不適合者と付き合っていたら佳代は幸せになんかなれないよ。

 佳代はちゃんとした就職をしてちゃんとした男性と結婚しなよ。

 俺は佳代の事本当に好きだからこそ幸せになって欲しいんだよ。 」




 佳代は結局は写真とは全く関係のないスーパーに就職しました。

 
 淳吾とは自然消滅みたいになっていって連絡もとらなくなっていきました。


 しかもネットやSNSの発達によって 阿佐ヶ谷のオルタナティヴ・ショップも経営していけなくなり閉店してしまいました。



 そして佳代は仕事先で知り合った普通の男性と結婚しました。


 佳代は結局は資本主義的な生活をするようになり、かつての資本主義以外のライフ・スタイルの探求も上座仏教もできなくなりました。


 写真の方は仕事の休みにたまに趣味で楽しむ程度になりました。



 結婚した男性には淳吾の事や反資本主義の話などは全くしませんでした。

 


 そんな生活を始めて10年程経った頃、ネット上で淳吾が書いたと思われるサイトを偶然見つけたのです!


 そのサイトは淳吾の本名などは出ていませんでしたが、その独特の語り口や主張などは間違いなく淳吾のものだと分かりました。


 そのサイトによると淳吾は佳代と連絡をとらなくなった後、作業系の仕事などをしながら社会啓蒙活動家となったようでした。


 大学に行かなくなった後、佳代から聞いた東南アジアの上座仏教を独学で研鑽を積み全く独自の上座仏教社会主義という思想を形成したらしいのです。


 その上座仏教社会主義とは上座仏教的な功徳と因果関係を頂点とする社会主義の事らしかった。

 
 淳吾は佳代と自然消滅した後は自分で地道に機関紙やパンフレットをパソコンで印刷し発行していたようです。


 駅前などで辻説法や機関紙の配布などを地道に活動していたそうです。


 ですが淳吾の思想を理解する人も支持する人も殆ど居ませんでした。


 それでも淳吾は地道に活動を続けていたらしいです。

 




 そのサイトには連絡先は書かれておらず、コメント欄がありました。
 
 佳代は久しぶりに興奮して居ても立っても居られなくなりましたが、自分は既に結婚している身であり夫にも淳吾にも迷惑をかけたくないのでコメントもひかえる事にしましたそうです。
 





 

      ――――  劇終  ―――― 






漢学寄席 22 杜甫 人間の真価というものは、死んでから決まる 

2018-05-29 |  【 お笑い 漢学寄席 】




        






 3 紀行の巻 一


 一  杜陵に一人の無位無官の男が住んでいますが

    老年になるにつれてその気持ちはますます当世向きではなくなりました。

    彼は全くばかばかしいくらいにうぬぼれが強くて

    内心では自分を古の治世の賢臣である稷や契などになぞらえているのであります。



 二  そんなばかげたことを考えているものだから、時勢にもあわず世間からも取り残されてしまい

    白髪頭になってしまった今でも、苦労の生活に甘んじていなければならないのであります。

    もともと人間の真価というものは、死んでから決まると思っていますから

    自分の気持ちだけはいつも広々と大きく保っていたいと念願しています。










 

漢学寄席 21  愚公山を移す

2018-05-22 |  【 お笑い 漢学寄席 】


【愚公山を移す/「列子」湯問編】



どんな難事でも志をもって専念して努力すれば可能となることのたとえ。

『書き下し文』

太行(たいこう)・王屋(おうおく)の二山は、 方七百里、高さ万仞。

本冀州の南、河陽の北に在り。

北山の愚公(ぐこう)という者)あり、 年且に九十ならんとす。

山に面して居り、 山北の塞の出入の迂なるに懲(くる)しむ。


室を聚(あつ)めて謀(はか)りて曰く、 吾、汝らと力を畢(つ)くして険(けん)を平らかにし、予南を指通して、漢陰に達せん。

可ならんか、と。
雑然(しか)りとして相許す。

其の妻疑いを献(けん)じて曰く、 君の力を以てしては、 曽(すなわ)ち魁父(かいふ)の丘を損ずる能(あた)わず。

太行・王屋を如何せん。

且に焉(いずく)にか土石を置かんとする、と。

雑(みな)曰く、諸(これ)を渤海(ぼっかい)の尾、 隠土(いんど)の北に投ぜん、と。

遂に子孫を率い、 荷担(かたん)する者三夫、 石を叩き壌(つち)を墾(ひら)き、 箕畚(きほん)もて渤海の尾に運ぶ。


隣人京城氏(けいじょうし)の孀妻(そうさい)に、 遺男有り、始めて齔(しん)す。

跳(おど)り往きて之を助け、 寒暑(かんしょ)節を易(か)え、始めて一(ひと)たび反(かえ)る。

河曲(かきょく)の智叟(ちそう)、笑いて之を止どめて曰く、 甚(はなは)だしきかな、汝の不恵(ふけい)なる。

残年の余力を以てしては、 曽(すなわ)ち山の一毛を毀(こぼ)つ能わず。

其れ土石を如何(いかん)せん。

北山の愚公長息(ちょうそく)して曰く、 汝が心の固なること、 固(まこと)に徹す可からず、 曽(すなわ)ち孀妻(そうさい)の弱子(じゃくし)に若かず。

我死すと雖(いえど)も、子有りて存す。

子は又孫を生み、 孫は又子を生む。子に又子有り、 子に又孫有り。


子子孫孫、窮匱(きゅうき)無し。

而るに山は加増せず。

何若(いかん)ぞ平らかならざらん、と。

河曲(かきょく)の智叟(ちそう)、以て応うる亡し。

操蛇(そうだ)の神之を聞き、 其の已(や)まざるを懼(おそ)れ、之を帝に告ぐ。

帝其の誠に感じ、 夸蛾氏(かがし)の二子(にし)に命じて二山を負わしめ、 一(いつ)は朔東(さくとう)に厝(お)き、 一(いつ)は雍南(ようなん)に厝(お)く。

此より、冀(き)の南、 漢の陰(みなみ)、隴断(ろうだん)無し。



『現代語訳』


 太行山と王屋山のふたつの山は、もともと今の場所にはなく、 昔は、はるか離れた冀州(きしゅう)の南で河陽の北にあった。


 その昔、北山に愚公という九十歳ちかい老人がいた。

 彼の家は太行山と王屋山のふたつの山に面しており、 彼の家の出入り口が山の北側でふさがれていたので、どこかに出かけるにも遠回りしなければならなかった。


 あるとき、愚公は家族を集めて相談した。

 「みんなであの山を切り崩して平にし、 予州の南をめざしてまっすぐに道路をつくり、 漢水の南岸まで通させたいと思うのだが、どうだろう」

 家族はみな賛成した。愚公の妻はたずねた。

 「あなたの力では小さな丘すら崩せませんよ。

 ましてや太行山と王屋山みたいな大きな山は・・・

 それに、山を崩した土はどこに捨てるのですか」


 家族のみんなは言った。

 「渤海(ぼっかい)か隠土のあたりまで捨てに行けばいいよ」

 愚公は息子や孫たちを連れて作業をはじめたが、モッコをかつげる者はたった三人だった。

 彼らは岩石を打ち砕き、土地を切り開き、箕(み)やモッコで土や石をはるか離れた渤海のはずれにまで運んだ。


 愚公のとなりの家に未亡人が住んでいて、 彼女には、やっと歯が抜け変わったばかりの七、八歳くらいの男の子がひとりいた。

 その子も手伝った。

 しかし作業のペースは遅く、土を運んでやっと一度家に戻るまでに、半年もかかった。

 河曲に住む智叟(ちそう)という名前の利口な老人が、あざ笑って愚公に言った。

 「あきれたね。君の老い先短い力では、

 山の草いっぽんだって満足には抜けまい。

 まして、あれだけ膨大な土と石をどうできるというのだ」


 愚公は答えた。

 「君の頭の固さは、あの未亡人のところの幼い子どもにも劣る。

 わしが死んでも、子があとを継ぐ。

 子は孫を生み、孫はまた子を生む。

 子子孫孫、果てることはない。

 山の土砂はたしかに膨大な量だが、無限ではない。

 いつかは平らにできないはずがない」

 智叟は返す言葉も無かった。


 山の神は愚公の言葉を聞いて、本当に山が切り崩されてしまうのではないかと心配し、天帝に報告した。

 天帝は感心し、巨人の神のふたりの息子に命じて、太行山と王屋山のふたつの山を背負わせて、それぞれ遠くに運ばせた。


 こうして、冀州の南から漢水の南側にかけては丘ひとつない大平原になったのである。













和学寄席 26  積木くずし

2018-05-22 |  【 お笑い 和学寄席 】




    https://www.youtube.com/watch?v=2aM_MJAwu60   積木くずし 最終章











漢学寄席 20 一頁台北  Au revoir Taipei

2018-05-22 |  【 お笑い 漢学寄席 】




    https://www.youtube.com/watch?v=ppz0vbHJYO4   Au revoir Taipei - Comedy Movie









漢学寄席 19  人形劇 三国志

2018-05-22 |  【 お笑い 漢学寄席 】




    https://www.youtube.com/watch?v=7nkz8nBK92k   人形劇 三国志 テーマ曲


    https://www.youtube.com/watch?v=U7BLMZFujww   人形劇 三国志 名場面「桃園の誓い」


    https://www.youtube.com/watch?v=j_z4QalgcMk   人形劇 三国志 「連環の計」











和学寄席 25 坂口安吾 無償の行為

2018-05-20 |  【 お笑い 和学寄席 】


  いずこへ  坂口安吾




 芸術家は ― 私はそこで思う。 

 人のために生きること。

 奉仕のために捧げられること。

 私は毎日そのことを考えた。

 「 己れの欲するものをささげることによって、真実の自足に至ること。

 己れを失うことによって、己れを見出すこと。」


 私は「 無償の行為 」という言葉を、考えつづけていたのである。





和学寄席 24 有島武郎 神聖な仕事 芸術の宮殿

2018-05-20 |  【 お笑い 和学寄席 】



 生まれ出づる悩み   有島武郎



 私は自分の仕事を神聖なものにしようとしていた。

 ねじ曲ろうとする自分の心をひっぱたいて、出来るだけ伸び伸びとした真直な明るい世界に出て、そこに自分の芸術の宮殿を築き上げようともがいていた。

 それは私にとってどれ程喜ばしい事だったろう。

 と同時にどれ程苦しい事だったろう。

 私の心の奥底にはたしかに ― 凡ての人の心の奥底にあるのと同様な ― 火が燃えてはいたけれども、その火を燻らそうとする塵芥の堆積は又ひどいものだった。



 ・・・・・



 人間と云うものは、生きる為めには、厭でも死の側近くまで行かなければならないのだ。

 謂わば捨身になって、こっちから死に近づいて、死の油断を見すまして、かっぱらいのように生の一片をひったくって逃げて来なければならないのだ。








和学寄席 23 「仁義なき戦い」 名言・名セリフ集

2018-05-19 |  【 お笑い 和学寄席 】





https://www.youtube.com/watch?v=1I4tkYRgYMA&list=PLWXyLGKG8oLDYqTUaQyy-kjFHOPEPGNxU


https://www.youtube.com/watch?v=cn5LZIhFTbc



https://www.youtube.com/watch?v=f1rXJxb_nSw   仁義ある戦い




 >  仁義なき戦いのセリフが馬鹿馬鹿しくて面白い。








和学寄席 22 日本の先祖の知恵 ところてん らっきょう

2018-05-18 |  【 お笑い 和学寄席 】



 夏の風物詩・暑さしのぎ

 四谷怪談 に続く先祖の知恵


 ところてん  


 これも子供の頃・若い頃はほとんど食べなかった。

 たまに食べても変な味としか思わなかった。


 でも食べてみるととても美味しい。
 

 ところてんとらっきょうは食べてみると心身が涼しくなる。








漢学寄席 18  荘子 妻の死

2018-05-18 |  【 お笑い 漢学寄席 】




        





 至楽篇  第十八


 荘子の妻が死んだ。

 恵子がおとむらいにゆくと、荘子はちょうど足をくずしてあぐらをかき、土の瓶をたたきながら歌をうたっていた。

 恵子は言った

 「 夫婦としてともに暮らし、子供を育てて老年になったのだ。

 その相手が死んだのに泣き叫ぶこともしないというのは、それだけでも不人情だといえるが、さらに瓶をたたきながら歌をうたっているとは、なんとひどすぎるじゃないか。」


 荘子は答えた。

 「 そうじゃない。

  死んだばかりのときは、私だってやはり悲しみがこみあげずにはおれなかったよ。

  ただその始まりをよく考えてみると、もともと生命はなかったのだ。

  生命がなかったばかりじゃない、もともと形もなかったのだ。

  形がなかったばかりじゃない。

  もともと[ 形を作る元素の ]気もなかったのだ。

  おぼろなとらえどころのない状態のなかでまじりあっていたものから、やがて変化して気ができ、気が変化して形ができ、形が変化して生命ができた。

 
  そして今やまた変化して死へと帰ってゆくのだ。

  これは春夏秋冬の四季のめぐりと同じことを、たがいにくりかえしているのだ。

  人が大きな天地の部屋で安らかに眠ろうとしているのに、私がそれを追いかけて大声をはりあげて泣き叫ぶのは、われながら運命の道理に通じないことだと思う。

  そこで泣き叫ぶのをやめたのだ。 」


















 【新刊】『愛の右翼 赤尾 敏』

2018-05-18 | コエドロジー 【こえど町人文化●共栄会】






https://www.atpress.ne.jp/news/154224   


   【新刊】『愛の右翼 赤尾 敏』~91歳の生涯で3万回以上の 辻説法を行った「伝説の右翼」~ 2018年4月17日刊行




>  赤尾敏の姪の赤尾由美さんが書かれた、叔父 赤尾敏氏についての著作。


 今なら三省堂書店 神保町本店に行けば購入できます。  

 その他全国の書店で注文購入できると思います。


 戦後日本の建国の父ともいえる赤尾敏先生の今まで知られていなかった側面がリアルに描かれている。

 赤尾敏先生は本当に偉大な方でわても多大なる影響を受けた。






和学寄席 21  人間の証明

2018-05-17 |  【 お笑い 和学寄席 】




https://www.youtube.com/watch?v=E6GDVins5DI   人間の証明





和学寄席 20  四谷怪談

2018-05-17 |  【 お笑い 和学寄席 】




     






https://www.youtube.com/watch?v=vAn_-yGzIAc 




四谷怪談  


お岩さんの物語

「四谷怪談」は日本で最も有名な怪談の一つでしょう。しかし若い方の中にはその筋までは知らない方もあるかと思います。大雑把なことを言えば、夫に裏切られ顔の崩れる薬を飲まされ憤死したお岩さんの霊がその復讐をとげる劇ということができます。これは実話に基づいて作られたもので、文政8年(1825)7月に初演された「東海道四谷怪談」が戸板返し・提灯抜け・仏檀返しなどのSFX的演出で評判を取り、現在まで伝えられることになりました。



忠臣蔵のサブストーリー

四代目鶴屋南北(1829.11.27没)の「東海道四谷怪談」はこの物語を忠臣蔵のサブストーリーとして演出しました。

このため、当時忠臣蔵と四谷怪談を同時進行で2日がかりで上演するという大胆な手法が取られたのです。1日目にまず忠臣蔵の大序から六段目までを演じ、そのあと四谷怪談の三幕目「堀」までを演じて、2日目忠臣蔵の7段目からクライマックス直前までを演じてから四谷怪談の四・五幕目、復讐成就までを演じて、最後に忠臣蔵の討ち入りを演じるというやり方です。見ている方は最後に非常に大きなカタルシスを感じたことでしょう。



忠臣蔵とは
 
1701年から1702年にかけて起きた事件です。1701年3月14日江戸城内で、天皇からの勅使を迎える準備をしている最中に、赤穂藩主浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)が吉良上野介(きら・こうずけのすけ)に突然斬り掛かるという事件(松の廊下事件)が発生しました。時の将軍・徳川綱吉は、大事な勅使を迎えようとしている時ということもあり、この事態に激怒。浅野内匠頭に即日切腹を命じ、赤穂藩もお取りつぶしの断を下しました。しかし一方の相手の吉良上野介に対しては何のおとがめもありませんでした。
収まらないのは突然藩主が切腹を命じられ、藩もお取りつぶしということにされてしまった赤穂藩の藩士たちです。一時は城の引き取りに来る幕府の軍隊に対して籠城して抵抗しようなどという激論も出ますが、家老の大石内蔵助(おおいし・くらのすけ)はみんなをうまくまとめて無抵抗で城を明け渡し、混乱を防ぎました。

そして大石らは浅野家の血を引く浅野大学を建てて幕府にお家の再興を願い出ますが、結局この申請は却下されてしまいます。一方当初から、この赤穂藩の遺臣たちが、何のおとがめもなかった吉良上野介に対して主君の仇討ちをするのではないかという噂が流れます。しかし大石はその噂を笑い飛ばすかのように京都で、江戸で連日のように茶屋で遊びまくり、失望して多くの赤穂藩浪士が大石のもとを去っていきました。むろんこの中には大石がほんとうに仇討ちをするのではないかと幕府が警戒して送り込んでいたスパイもいたはずです。

しかし大石は腰抜けで、そんなことをするような奴ではない、と誰もが思うようになっていた1702年12月15日の早朝。大石が率いる47人の赤穂浪士が吉良邸に侵入、見事に吉良を討ち取って主君の仇を取ったのでした。(これを討ち入りといいます)

浪士たちは切腹を命じられ、そして英雄となりました。


四谷怪談の実話

四谷怪談の元になった実話については、東京四谷のお岩稲荷に1827年に記録された文書が残されています。実際の事件が起きたのはその100年ほど前、ちょうど本当に忠臣蔵の事件が起きた頃のことのようです。多分最も古い記録は1727年の「四谷実録集」でしょう。

お岩稲荷の文書によれば、四谷に住む武士・田宮又左右衛門の娘、お岩が浪人の伊右衛門を婿にとったが、伊右衛門が心変わりして一方的にお岩を離縁したため、お岩が狂乱して行方不明となり(別説では伊右衛門が隣家・伊藤家の妾と通じてお岩をいびり殺した。)、その後田宮家で変異が相次いだため、田宮邸の跡地にお岩稲荷を建てたというものです。これが現在の田宮神社です。現在その向かいの陽運寺にもお岩さんは祀られています。

また、お岩さんのお墓は巣鴨の妙行寺にあります。

 

「東海道四谷怪談」のストーリー

第1幕

塩谷(浅野)浪人の四谷左門の娘・お岩は同じ塩谷浪人の民谷伊右衛門に嫁いでいましたが、もうすぐ子供が生まれるというのに、左門はお岩を実家に連れ戻してしまいます。それは伊右衛門が塩谷家がお取りつぶしになる前に、公金に手を付けていたことを知ったからでした。伊右衛門はそのことがばれることを恐れ、左門を密かに殺してしまいます。

一方、お岩の妹のお袖も同じく塩谷浪人佐藤与茂七と結婚していましたが、直助という男が彼女にしつこく言い寄っていました。そして直助はなかなかお袖が言うことを聞かないので、夫の与茂七を殺してしまいます。(実は人違い)。

伊右衛門はお岩に父親の仇を取ってやるからと言いくるめて復縁し、直助もお袖に夫の仇を取ってやるからと言って結婚しました。

第2幕(伊右衛門浪宅の場)

お岩は子供を出産しましたが、産後のひだちが悪く、そんなお岩を伊右衛門は次第にうとましく思うようになりました。そんな時に隣の高師直(吉良上野介)家臣伊藤喜兵衛が伊右衛門に孫娘のお梅を嫁にして欲しいと言って来ました。伊右衛門は高家の家臣なら仕官の口添えも期待できそうと思い、その話に乗り、お岩を不貞者として離縁するために、按摩の宅悦に金をやってお岩を強姦するよう命じます。

ところが一方の伊藤喜兵衛の方もお岩を亡き者にしようとして、お岩に血の道の薬と偽って毒薬を届けさせていたのです。そうとは知らずに薬を飲んだお岩は宅悦の目の前で髪をすくと全部抜け落ちてしまい(髪梳きといって前半のクライマックス)、顔も崩れていきます。

驚いた宅悦はもうお岩を手込めにするどころではなくなり、あっさり伊右衛門の悪だくみを白状してしまいます。怒ったお岩はその宅悦ともみあう内、宅悦の刀がささって死んでしまいました。

一方、伊右衛門たちは民谷家秘伝の薬を盗もうとした下男の小仏小平を折檻して殺してしまい、結局小平の死体とお岩の死体を戸板の表裏にくくって川に流してしまいました。

そしてこれで邪魔者はいなくなったとばかり、伊右衛門とお梅は祝言をあげますが、そのお梅の顔が伊右衛門にはお岩の顔に変わったように見え、喜兵衛の顔は小平の顔に変わったように見えてしまい、恐怖に踊らされた伊右衛門は二人を斬り殺してしまいます。

第3幕(砂村隠亡堀の場)

伊右衛門が川で釣りをしていて、直助と再会します。直助が川で櫛を拾い持ち帰りますが、それは実はお岩の持っていた櫛でした。この後、ここへ伊藤の娘、お弓が現れますが、伊右衛門は父と娘の仇。そのお弓を伊右衛門は殺してしまいます。

そこへ川上から見覚えのある戸板が流れて来ました。引き上げてみるとお岩の遺体。その遺体が口を開いて怨みの言葉を言います。怖くなって裏返すと小平の遺体。その遺体も口を開いてまた怨みの言葉。(戸板返しといい最大の見せ場)

第4幕(深川三角屋敷の場)

お袖はやむなく直助と夫婦になっていましたが、その直助が持ち帰ってきた櫛は姉・お岩のものでした。そして彼女は宅悦から姉の死を知らされます。おどろいていたお袖のもとに、更に死んだと思っていた夫与茂七が現れお袖は混乱します。

そして更に、直助が実はお袖の実の兄であったことが判明し、お袖は自分を恥じて直助に斬られるようにし、直助もさすがのことにショックを覚えて自害してしまいます。

第5幕(螢狩り・蛇山庵室の場)

伊右衛門は七夕の宵迷い込んだ家で美人の女主人にもてなされますが、その女主人の顔はいつしかお岩の顔になっていました。さらに庭のかぼちゃもみんなお岩の顔で、提灯の中から更にお岩が出現します。(提灯抜け)

伊右衛門は亡霊におびえて百万遍の念仏に行きますが、効果はなく度重なるお岩の出現に次第に追いつめられていきます。そして最後、佐藤与茂七に、義父と義姉の仇として討たれてしまうのです。



お岩さんの祟り?

さて、お岩さんに関しては、この話を劇などで上演したり、本を書いたりすると祟るという話が蔓延しています。そのため四谷怪談の芝居を上演したり映画を撮る時は必ずみんなでお岩稲荷にお参りに行くということになっているようです。お参りをしなかったためにひどい祟りがあった、という話も多数あります。

考えてみると、お岩さんというのは夫に裏切られた女ということで、江戸の多くの悲しい女のある意味で代表にされている面があるのではないでしょうか。そのことを考えずにおもしろおかしく、この話題を取り上げたり、映画で一発当ててやろうなどとしたら、これはお岩さんのみならず、多くの女性たちの悲しい思いがそれに抗議したとしても不思議ではないかも知れません。

今回、この怪談に関する記事を書くのに際し、祟るからということでよっぽと四谷怪談は飛ばそうかとも思ったのですが、やはり最も有名な怪談であるこれを飛ばすのは逆に問題であると考え、できるだけ真摯な気持ちでこれを書かせていただくことにしました。お岩さん、および多くの悲しい女性たちの思いに供養の気持ちを持って。





> 夏の風物詩・暑さしのぎにはこれでしょ   


 江戸時代にクーラーや扇風機が無かった頃の日本の先祖の知恵  




和学寄席 19 Zatoichis Cane Sword 座頭市 1967

2018-05-16 |  【 お笑い 和学寄席 】




https://www.youtube.com/watch?v=t6a2Bmw23IQ   Zatoichis Cane Sword 1967



 映画・座頭市シリーズ


 現在巷間に伝えられる座頭市の人となりは、大部分が勝新太郎主演で座頭市の物語が製作された時に作られたものである。また、原作の長ドスを仕込み杖としたのも勝である。


 平手造酒との甘えのない男同士の友情を底流とする1作目『座頭市物語』は三隅監督の作品となっているが、5作目以降は宿命を負わずニヒリズムも拒否した、ある種の「諦観」が勝の味となっている。


 勝の主演での劇場版最大のヒット作は1970年の『座頭市と用心棒』。

 それまで大スターの共演はなかった座頭市シリーズだが、この作品には三船敏郎と若尾文子が出演している。

 黒澤明の『用心棒』『椿三十郎』に出演した三船演じる用心棒と、勝の座頭市とが、敵味方に対峙して出演。当初、三船は友情出演程度のオファーであったと思っており、本当に対決するとは思わず、タイトルに「用心棒」と入っていた事に大変驚いたという。当時は「時代劇ビッグスター・頂上対決」として、大きな話題となった。

 三船を立てるためもあって、その盟友である岡本喜八を初の社外監督として招いての大作仕立てであったが、絵コンテを切って全構図とカッティングを自分が決めるスタイルの岡本は、大映の主ともいえる宮川一夫カメラマンの口出しを一切許さず、撮影はかなり険悪な雰囲気で行われたといわれる。

 時間に厳格な東宝撮影所で育った岡本と三船の二人だけが定時前に出勤し、なかなか出てこない大映スタッフに苛立つ場面も見られた。

 キャストにもいわゆる喜八ファミリーと呼ばれる岡本作品の常連俳優が数多く並んだが、その一人岸田森はこの後、勝とも親密な関係となった。



 1960年代の映画シリーズの音楽の殆どは伊福部昭が担当した。

 1989年には勝新太郎の監督による『座頭市』が公開された。

 しかし、立ち回りの撮影中に勝の長男である鴈龍太郎(奥村雄大)の真剣が出演者の頸部に刺さり、頸動脈切断で死亡する事故が起きたり、公開翌年には勝新太郎がコカイン所持で逮捕されるなどして、映画(および勝)の周辺にはトラブルが絶えなかった。

 『座頭市2』の企画がしばしば話題に出ることがあったものの、勝の逮捕が影響してか新作企画はいずれも頓挫したようであり、本作が勝新太郎による最後の製作映画となった。


 大映の座頭市シリーズの人気により、他社から亜流ともいえる作品が生み出された。

 東映は、1963年に東千代之介主演の『めくら狼』を製作・配給[2]、松竹は、松山容子主演の京都映画『めくらのお市』シリーズ3作を1969年に配給した。