新年、明けまして、おめでとうございます。
年末は、何かと気が急いて、ブログを書く余裕がなかった。
元日は、二人の弟の家族、妹家族、甥の家族、総勢15人が勢ぞろい。
昨年は、海外在住の妹の次女とそのフィアンセも駆けつけて、家族全員が揃い、こんなことは最初で最後だと思っていた。母の入院、両親への本格的な介護が必要になったということもあって、みんな、今年が最後になるかも知れないと思って、来てくれたのだろう。
中でも、一昨年生まれた甥の娘、エマちゃんが、自由に駆け回り、おしゃべりできるまでに成長して、みんなのアイドル。本人も、自分が中心的スターであることを分かっているようで、おおいに愛嬌を振りまいてくれた。両親も、ひいじいじ、ひいばあばと呼んでもらえて、上機嫌だった。
というわけで、おだやかなお正月を迎えることができた。
昨年は、両親の介護が本格的になり、心身両面で右往左往したおかげで、仏教の教えに一段と近づくことができた。特に、ここ1、2か月は、仏教の本質的な教えである空と縁起について、ずっと考え続け、それに応えるかのような、人や本との出会いがあった。
年末、最後に自宅に帰る日に、遠回りして唐招提寺に参ってきた。2009年秋に金堂の大修理が終わって以来、行ったことがなかったし、反省と懺悔の気持ちをいろいろ仏様にきいてもらいたいので、お参りした。
結構、観光客もいたが、ここは、開山忌などの年中行事が行われる日以外は、いつ来ても静かにお参りできる。唐招提寺のこの静けさが好きだ。折に触れて唐招提寺に足を運ぶのは、苦難を乗り越えて日本に戒律を伝えた、鑑真和上と弟子たちの信仰心にいくらかでも触れたいという思いからだ。
インドでイスラムの攻撃にさらされながらお釈迦様の教えを伝え、時代に生き残れる仏教のありようを模索し続けた人々、鳩摩羅什をはじめとするシルクロードの民、インドに渡って多くの経をもたらした玄奘など中国の僧たち、そして鑑真和上。
また、日本から中国に死を覚悟で渡って、真の仏教の教えを学びに行った空海、最澄、円仁、道元禅師。そして、自らの民族の苦難を背負いながら、世界中にお釈迦様の教えを説き続けるダライ・ラマ法王。
このような人々の、苦難をものともせず、ひたすら真の教えを伝えたいという思いがなかったならば、日本に仏教は根付かず、今、私が仏教にたどり着くこともなかった。
仏教をめぐる、時間、空間の広がりを思うとき、とても厳粛な気持ち、感謝の気持ちがわいてくる。
久しぶりに目にする金堂の天平の甍は美しく、威厳に満ちて、青空に大きく両翼を広げていた。金堂の仏様たち、毘盧遮那仏、薬師如来、千手観音も、修理を終えて、ひときわ美しいお姿で、衆生の祈りを受け止められていた。中国の僧たちが創建したお寺のせいか、この仏様たちは、どこか中国的な大きさが感じられる。中でも千手観音の迫力あるお姿には、いつも圧倒される。
仏様の前で、般若心経、懺悔偈(さんげげ)を唱え、これまでの自分の行いを懺悔した。
我れ昔より造るところの諸々の悪業は
皆無始の貪瞋癡(とんじんち)に由る身語意(しんごい)より生ずるところなり
一切我れ今、みな懺悔したてまつる
これからは、自我に執着せず、怒らず、自らの無明をいつも自覚し、おだやかに行動することを誓った。
おだやかであるためには、空と縁起という存在の有り様を、いつも心にとめておくことが必要だ。
そして、両親がおだやかな毎日を送ることができますように、世界中の人々が、平和な中に、おだやかな日々を送ることができますように、心を込めてお祈りした。
毘盧遮那仏は宇宙の象徴であり、薬師如来は人々を病から救ってくださる仏であり、千手観音は千の手で人々を苦しみから救ってくださる。人々の思いを受け止めるのにふさわしい組み合わせの仏様だ。