連日書いている「幻のブルドーザー戦車」ですが、実際の香取村開拓の話をしてから模型の製作秘話を書きたいと思います。
かなり前になると思いますが、NHKのBSかどこかで鳥取県大山の香取村の開拓のドキュメンタリーの様な番組が有ったそうなのですが、私は見ていません。
アーカイブかなにかで残っていたら見てみたいのですが。
恐らく、戦車を改造して作った「ブルドーザー」の話も出たと思います。
ただ、鳥取県の人でもこの「ブルドーザー戦車」に付いて知っている人はほとんどいないと思います。
かく言う私も知りませんでした。
資料もほとんど無いし、その当時、写真も高価で撮っていないというのが実情です。
しかし、ブルドーザー戦車を運転していた「丹羽次郎さん」は、この当時、非常に高価だった「ライカのカメラ」を所有されていたので、高画質のブルドーザー戦車の写真が沢山残っていました。
ブルドーザー戦車の模型の製作に、この写真が非常に参考になりました。
しかも、実際に香取村に来られて開拓に携わった「丹羽次郎さん」に当時の実話を沢山聞けたのが今思うと宝の様な話でした。
丹羽さんとお会いしてからもう12年も立ってしまいましたが、その時のお話は今でも鮮明に覚えています。
今日からしばらく、その香取村の開拓秘話を書こうと思います。
ブルドーザー戦車のジオラマの製作はもう少し後になりますが、ご了承ください。
時代は戦後(1945年)の後の話です。
終戦で大陸から引き上げて来た元日本兵の皆さんは鳥取の港に着いたは良いが、四国の香川県まで帰る事が出来無い人が沢山いました。
そこで鳥取県最高峰の大山麓にある未開の地を自分たちで開拓すれば、そこに住んで良いという事を鳥取県が決めたそうです。
香川県の人たちはうっそうと茂る赤松を切り倒し、地面を堀り、酪農が出来る土地を作るため働きましたがとうてい人力だけでは無理だったようです。
そこで、これはどこが発注したのか資料が無くて分からないのですが恐らく鳥取県の方から東京の「協同建設」と言う会社に、ブルドーザーを持って来て開墾の手伝いをしてほしという事を連絡した所、丹羽次郎さんを含む7人の勇者がブルドーザー2台と一緒に来られました。
この写真は丹羽さんのライカのカメラで撮影された貴重な写真です。
さすがライカのカメラだけ有って、非常に鮮明で、正確な写真です。
この写真のおかげでブルドーザーブレードの形状や大きさのバランス等知る事が出来ました。
こちらが1/35の模型
大山の現場は大変なジャングル状態。
この当時、赤松の木が沢山生えていました。
これがその当時の香取村の実際の写真です。
このブルドーザーは高座型で、車体の高い位置から前を見る事が出来るタイプです。
こんな荒れ地を一つ一つ開墾して農地にしました。
地面は大山特有の「くろぼく」と呼ばれる火山灰で、畑や水田を作るには向かない土地の様です。
なので酪農が盛んに行われる様になった様です。
赤松の木が沢山生えていたのは、松の木の根から油を取る為だった様です。
「松根油」(しょうこんゆ)と言うそうです。
そのため、沢山の赤松が生えてました。
これを倒すのに、ブルドーザーが必要だったのですが、今有る「コマツ」とか本当のブルドーザーと違い、戦車を改造したブルドーザーとは言いがたい代物だったので、走る早さは負けなかった様ですが、物を押し倒す力は意外なほど無かった様です。
なので、イメージとしてはブルドーザーブレードで、大木を押し倒してガンガン進むという感じでしょうけど、実際は、ブレードで木を揺すぶって、根を緩め、その後、木にロープをかけてひき倒していたそうです。
小さい松の木でも意外なほど頑丈で、すぐにブルドーザーブレード(排土板)が壊れたそうです。
この山の中では溶接機も無く、修理には大山の麓の町、米子まで戦車ごと走って行き、米子鉄鋼所で修理してもらっていたそうです。
その時、ブルドーザーブレードではなく、「スキ」を作ってもらい、木の根っこにアタックしやすい様に改造してそうです。
その写真がこれ、
この写真も非常に貴重な一枚です。
恐らく、鳥取県の香取の役場にもこの写真は無いと思います。
その当時の香取村開拓の写真です。
こちらのブルドーザー戦車は、低座型です。
戦車の砲塔を取っ払い、天板も無くし、操縦席がそのまま露出した状態のタイプです。
こちらが1/35の低座型模型です。
ブルドーザー戦車を米子まで走らせるに、途中、木製の橋を渡る事が何度か有ったそうですが、小型の戦車とは言え15トンの重量が有るので、木の橋を渡るに、もし、橋が壊れて谷底に堕ちたら即死だ!という事で、戦車の操縦桿にカマセをして、エンジンをかけて、無人で走らせ、無事渡った所で乗り込んだそうです。
米子の町を走っていたら、どこかのおばあさんが、「こんなすごい物が有るのに、なんで戦争に負けたんじゃ〜!!」と怒鳴られた事も有ったそうです。
そんな日々の中ブルドーザーは毎日の様にトラブルが起きたそうです。
その度、丹羽さんが自分で修理していたそうです。
これがそのメンテナンスの様子。
右の方が丹羽さんです。
エンジンの形状や冷却のシロッコファンの位置がはっきりと分かります。
そして、この戦車のバッテリーがくせ者で、しょっちゅう上がってしまい、エンジンがかからなくなったそうです。
最初は、その都度10キロくらい有ったバッテリーを背中に背負って米子まで充電してもらいに行ったそうですが、バスに乗るとき、運転手に「そんな物持って乗るな!!」と乗車拒否されたそうです。
その時は仕方が無いので大山から米子まで20キロ以上ある道のりをバッテリー背負って歩いて行ったそうです。
それでもバッテリーは放電しなくなり、丹羽さんたちはある方法でエンジンをかけたそうです。
その話は次回に!