業突く張りとか因業親父とか言う言葉(若い方は使わないかも)の業は
悪いイメージがありますが、業それ自体には本当は良いも悪いもなく
その人の行いを云う言葉です、業すなわち行いと同意語と思っていいと
思います。仏教用語は本来の意味とは違って使われるのが多いと、青山先生の
CDにもあります。
仏教学(唯識)では
五感と意識を合わせた六感(六識)の底に、七識に末那識(無意識、これが自分だと思う
意識)、その奥に八識の阿頼耶識と云うものをおきます。
阿頼耶識は人の奥底にひそんでいるのですが、なにか行いをすると、つまり業を
つくると、阿頼耶識に種子(しゅうじ)として蓄えられます。生まれてから死ぬまでの
行いが種子として蓄えられますので、ときどき過去の良いこと悪いことが
意識にのぼるときがあるというわけです。
現代科学でいうと、DNAのゲノムと解釈しても良いと思います、仏教学が
ヨーロッパでも研究されるのは、インド人の思想の深さが現代科学でも
否定されないからと思います。
この種子は子孫に受け継がれます、まさしくDNAですね、自分の行いが
自分一代で完結しないで、子々孫々に影響を与えるわけです。まさしく
メンデル(?)でしたか遺伝の法則に合致しますよね。
ですから仏教はおもしろいんですが、もう酔いが回ってきました、
to be continued!
つづきものが多くなってだいじょうぶかな?
悪いイメージがありますが、業それ自体には本当は良いも悪いもなく
その人の行いを云う言葉です、業すなわち行いと同意語と思っていいと
思います。仏教用語は本来の意味とは違って使われるのが多いと、青山先生の
CDにもあります。
仏教学(唯識)では
五感と意識を合わせた六感(六識)の底に、七識に末那識(無意識、これが自分だと思う
意識)、その奥に八識の阿頼耶識と云うものをおきます。
阿頼耶識は人の奥底にひそんでいるのですが、なにか行いをすると、つまり業を
つくると、阿頼耶識に種子(しゅうじ)として蓄えられます。生まれてから死ぬまでの
行いが種子として蓄えられますので、ときどき過去の良いこと悪いことが
意識にのぼるときがあるというわけです。
現代科学でいうと、DNAのゲノムと解釈しても良いと思います、仏教学が
ヨーロッパでも研究されるのは、インド人の思想の深さが現代科学でも
否定されないからと思います。
この種子は子孫に受け継がれます、まさしくDNAですね、自分の行いが
自分一代で完結しないで、子々孫々に影響を与えるわけです。まさしく
メンデル(?)でしたか遺伝の法則に合致しますよね。
ですから仏教はおもしろいんですが、もう酔いが回ってきました、
to be continued!
つづきものが多くなってだいじょうぶかな?