阿波池田「禿頭」の酔っ払って候(元福寿司2代目)

ブログ開始9年目、75歳になった。家族、師、友にブログ通じ少しでも恩返しが出来れば幸いなり。

ブラタモリ こんぴらさんに琴平駅が4つもあった、箸蔵寺さんがあんなに大きいのも納得かも!

2017年01月23日 22時59分51秒 | 日記
昭和の初め、琴平駅が4つもあった、琴平電鉄(現在の琴電)琴平参宮電鉄、琴平急行電鉄、それに国鉄(現JR)の駅舎が並んで。

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昨日、県民局さんの大会議室で100人以上の人が聴講した、三好の領主、大西氏についての話のなかに

大西氏の信仰についてとありましたので、箸蔵寺さんと何らかの関係があるのかと、思ったのですが

どうも大西氏については熊野詣でのお話があり、また当時の信仰は武勇の祈願が主だったとのことで

箸蔵寺さんの鄙には大きすぎるお寺(個人的感想)とは、大西氏との関連性はないようでした。


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それよりも、金比羅奥の院が影響していると理解しました、金比羅参りがこれほど大衆に支持されていたとは

ちょっと想像以上でした、昭和初期には高松、坂出、丸亀の港から電車が出ていたんですね、それにバスも

ありましたから、これはいくらなんでも過当競争になってしまい、結局、琴平参宮電鉄、琴平急行電鉄は

廃線となりますし、戦争の影響もあり鉄の供出が影響したんでしょうか。


箸蔵寺のガイドの先生、七條氏によりますと、江戸時代はこんぴらさんに参拝されたかたの、3,4割は

両参りと称して、箸蔵さんに来られたとのことですので、多くの信者さんや寄進をされる方も多かったと推測できます、

箸蔵寺名古屋別院もあるほどですから。

こんぴらさんも寄進をされる方がおおいので、わざわざ参道を逆個コの字にしてまで、玉垣を建てています。

ブラタモリで紹介していました。


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金丸座が出来たのが、1835年、そのあと天保の改革(1842年)で江戸所払いの市川團十郎一座が

金丸座に来て、箸蔵寺さんにもお参り、石灯籠を寄進されたのは当時の世相をまさしく表しているのですね。

まぁびっくりするのは

当時の人は歩くのは苦にならなかったですね。ガッテンしました。
コメント
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