NHK3日の放送で[もうひとつの御所 世界遺産京都・仁和寺]が放送された。
仁和寺は私がガイドをしている真言宗御室派・箸蔵寺のの大本山である、敷地面積23万坪だそうです。
東京ドーム(1.5万坪)15個ぐらいの面積。
この放送で私のガイドの内容が、間違っていないということが確認された(NHKが間違っていないという前提だが)。
仁和寺第30代門跡「小松宮彰仁親王」が最後の皇室出身の門跡で31代からは皇室以外の御室派の寺院より
門跡になられているようですが不確証、箸蔵寺の前御住職は第48代の門跡を務められた。
箸蔵寺の本殿には、彰仁親王の額がある、¨金比羅大権現¨と書かれている、両天狗さんの額の真ん中で本殿の正面の中央に
掲げられている。
仁和寺の宝物の中に、戊辰の役絵巻というのがあり、最初の部分に彰仁と書かれている、箸蔵寺の彰仁親王の額に書かれている
彰仁という字の書体が一緒であるのに気が付いた、額の字はかなり薄れているが間違いない。
また当時使われた錦の御旗も保存されている、もとは霊明殿の幕を使ったそうです。司馬さんの小説では
岩倉具視が急遽作ることになったと書かれていた記憶がある、膨らませると、岩倉が霊明殿のまくをみて、
よしこれを御旗にと考えたことになる。
「小松宮彰仁親王」は日本で最初の軍歌と言われている、とことんやれ節の宮さんである。
とことんやれ節
宮さん宮さん」(みやさんみやさん)は、1868年(慶応4年/明治元年)頃に作成された軍歌 ・行進曲である。
トコトンヤレ節もしくはトンヤレ節ともいう。作詞は品川弥二郎、作曲は 大村益次郎とされているが確証はない。
事実上、日本初の軍歌と言える。
系図をみると明治天皇のおじさんになるようですが、私ではよく分からない。
ーーー
話を平安時代初期に戻します。
第59代宇多天皇が888年仁和寺を創建されました、箸蔵寺は828年に弘法大師が開かれました。
宇多天皇は菅原道真を重用しますが、第60代醍醐天皇は道真を九州大宰府に流します、そして悲しみのうちに
その地で亡くなります。仁和寺には九州に流される前に一目でも宇多法王に会おうと仁和寺を訪れ
待つ間境内で腰を下ろした石がありました、結局お会いすることが出来なかったと番組で伝えていました。
箸蔵寺には
重要文化財の¨天神社¨がある、どうして天神社なのか、普通は地主神社(寺の敷地の神様を祀るのでは)では?
多分、これは私の推量だが、仁和寺・宇多天皇・菅原道真の関連から、箸蔵寺には天神社がある、と。
ーーー
明治元年の神仏分離令が出される前までは、お寺に神様をまつる社や祠があるのは普通でした、
明治政府が神道を国教としたため仏教やキリスト教が迫害されることとなり、廃仏毀釈がおこった、
奈良興福寺の僧侶が全員、春日大社の神官になったという話があるが本当なんだろうか。
かなりのお寺が破壊されるということが起こった、讃岐の、松代寺も金比羅さんと分離され
宝物がどちらに属するかで、法廷闘争が起きた。
しかし、箸蔵寺はその被害を受けていない、真言宗御室派、宮さん宮さんの官軍の
お寺であったからといえるのではないか。
芋焼酎ゆわりが利いてきたので、ここらで終わりに。
仁和寺は私がガイドをしている真言宗御室派・箸蔵寺のの大本山である、敷地面積23万坪だそうです。
東京ドーム(1.5万坪)15個ぐらいの面積。
この放送で私のガイドの内容が、間違っていないということが確認された(NHKが間違っていないという前提だが)。
仁和寺第30代門跡「小松宮彰仁親王」が最後の皇室出身の門跡で31代からは皇室以外の御室派の寺院より
門跡になられているようですが不確証、箸蔵寺の前御住職は第48代の門跡を務められた。
箸蔵寺の本殿には、彰仁親王の額がある、¨金比羅大権現¨と書かれている、両天狗さんの額の真ん中で本殿の正面の中央に
掲げられている。
仁和寺の宝物の中に、戊辰の役絵巻というのがあり、最初の部分に彰仁と書かれている、箸蔵寺の彰仁親王の額に書かれている
彰仁という字の書体が一緒であるのに気が付いた、額の字はかなり薄れているが間違いない。
また当時使われた錦の御旗も保存されている、もとは霊明殿の幕を使ったそうです。司馬さんの小説では
岩倉具視が急遽作ることになったと書かれていた記憶がある、膨らませると、岩倉が霊明殿のまくをみて、
よしこれを御旗にと考えたことになる。
「小松宮彰仁親王」は日本で最初の軍歌と言われている、とことんやれ節の宮さんである。
とことんやれ節
宮さん宮さん」(みやさんみやさん)は、1868年(慶応4年/明治元年)頃に作成された軍歌 ・行進曲である。
トコトンヤレ節もしくはトンヤレ節ともいう。作詞は品川弥二郎、作曲は 大村益次郎とされているが確証はない。
事実上、日本初の軍歌と言える。
系図をみると明治天皇のおじさんになるようですが、私ではよく分からない。
ーーー
話を平安時代初期に戻します。
第59代宇多天皇が888年仁和寺を創建されました、箸蔵寺は828年に弘法大師が開かれました。
宇多天皇は菅原道真を重用しますが、第60代醍醐天皇は道真を九州大宰府に流します、そして悲しみのうちに
その地で亡くなります。仁和寺には九州に流される前に一目でも宇多法王に会おうと仁和寺を訪れ
待つ間境内で腰を下ろした石がありました、結局お会いすることが出来なかったと番組で伝えていました。
箸蔵寺には
重要文化財の¨天神社¨がある、どうして天神社なのか、普通は地主神社(寺の敷地の神様を祀るのでは)では?
多分、これは私の推量だが、仁和寺・宇多天皇・菅原道真の関連から、箸蔵寺には天神社がある、と。
ーーー
明治元年の神仏分離令が出される前までは、お寺に神様をまつる社や祠があるのは普通でした、
明治政府が神道を国教としたため仏教やキリスト教が迫害されることとなり、廃仏毀釈がおこった、
奈良興福寺の僧侶が全員、春日大社の神官になったという話があるが本当なんだろうか。
かなりのお寺が破壊されるということが起こった、讃岐の、松代寺も金比羅さんと分離され
宝物がどちらに属するかで、法廷闘争が起きた。
しかし、箸蔵寺はその被害を受けていない、真言宗御室派、宮さん宮さんの官軍の
お寺であったからといえるのではないか。
芋焼酎ゆわりが利いてきたので、ここらで終わりに。