現在「日本囲碁大系5 道知」の巻の棋譜は残り3譜となっていましてほぼ予定道りの進行です。
尤も今回は「趙治勳傑作選1」も借りているので、こちらの方も予定通りとは行きませんでした。
今週残り(木)(金)の二日で読んで(土)に図書館に返すのはまず無理。
ですからこれはもう1週間延長するか・・・いや一旦返しておいて司書さんが書架へ陳列したところを再度借りると言う方法が良さそうです=これだとあと2週間のよゆうができます。
さて囲碁大系のほうも多少余裕が出来てきたので、巻末の「人とその時代 五 本因坊道知」<林裕>を読みました。
道知の生い立ち、争い碁のこと、名人碁所の話などかなり詳しく書かれています
晩年の道知といっても彼は38才で死去しているから、なんだか晩年と言うものがあったと言えるかどうか・・・ともかく「孤独の名人」だったようです。
それは坂田栄男さんの棋譜解説と読み合わせてみると”なるほど”です
もっとも私は素人ですから今から2,300年前とはいえ専業棋士の碁が簡単に分かるほど甘くはないのですが・・・
坂田さんによると「白踏み込みが足りないのでは?」とか「ここで黒を固めるのはおかしい」みたいな解説が目に付く
それは御城碁の棋譜です
年に1度、打たれた日付で言うと毎年11月の20日前後に御城で打たれた碁の棋譜です。
道知は本因坊家の当主として他の家の当主と互い先の対局をしていた時代
当時はコミという概念が無いから、例えば今年先で打つならば来年は後手で打つという具合で2局あわせて互い先な分けです
(有名な話でしょうが)その頃道知は「先番ならば5,6目勝ち」「白番ならば2,3目負け」という結果が並んでいます。
つまり、たまたまそうなったと言えるような「出現率」を越えて人為的な操作が感じられる結果です。
黒番で5,6目勝つと言うのは、現代でのコミ6目半から見るとさして難しいことでは無さそうに思えるのですが、必ずそうなると言うと話は別。
白番の場合2,3目負けと言うことは・・・あまり意味の無い例えかも知れませんが、現代のコミから考えると、本来白が3,4目優位な感じです。
それらを考え合わせると(無理にこじつけて)現在アマの点数制の手合い割りで言うと、道知と対局相手との力量差は最低でも先の半分・先互先くらいは違ったはずですし・・・
必ず狙い通りの結果を作り出せると言うことであれば、実際は「先」以上「2子」くらいの差があったかも知れないと感じる。
素人の感想ですが・・・
少しオーバーだったかも知れませんが、あながち出鱈目でも無いかも
「林裕」さんの解説によれば、「他の3家による道知を碁所に推薦」が無いことに怒った道知が「今後の御城碁では誰と打っても思い切り戦いますぞ」と申し入れたところ、3家は震え上がったと言うことですから前の話の傍証になりそう。
つまり道知が思い切り打ったならば、他の家の当主は惨めな負け方を続ける事になる=即ち「囲碁を業とする家として怠慢」となるわけで、あってはならない事態
と言うことは裏で道知に頼み込んで「談合」が成立していたらしい。
今のように実力タイトル制ではなくて、囲碁家元全体が幕府の保護の下に存在していたわけで、皆が生き残るためのある種の方便だったのでしょう。
但し、その時代道知は存分に戦った対局は無いのでしょうね?・・・そういう意味では天才も一人だけしか居ないのも不幸かも知れない。
現代のように天才と思われる棋士が数多く居て、尚且つ海外にも強豪が多い
それはそれで大変なことでしょうが、一人だけと言う時代に比べたらなんと幸せなことでしょうね・・・アマですから暢気にそんなことを言っていられる?
勿論です、勝手なことを無責任に言えるのがアマの特権です。
尤も今回は「趙治勳傑作選1」も借りているので、こちらの方も予定通りとは行きませんでした。
今週残り(木)(金)の二日で読んで(土)に図書館に返すのはまず無理。
ですからこれはもう1週間延長するか・・・いや一旦返しておいて司書さんが書架へ陳列したところを再度借りると言う方法が良さそうです=これだとあと2週間のよゆうができます。
さて囲碁大系のほうも多少余裕が出来てきたので、巻末の「人とその時代 五 本因坊道知」<林裕>を読みました。
道知の生い立ち、争い碁のこと、名人碁所の話などかなり詳しく書かれています
晩年の道知といっても彼は38才で死去しているから、なんだか晩年と言うものがあったと言えるかどうか・・・ともかく「孤独の名人」だったようです。
それは坂田栄男さんの棋譜解説と読み合わせてみると”なるほど”です
もっとも私は素人ですから今から2,300年前とはいえ専業棋士の碁が簡単に分かるほど甘くはないのですが・・・
坂田さんによると「白踏み込みが足りないのでは?」とか「ここで黒を固めるのはおかしい」みたいな解説が目に付く
それは御城碁の棋譜です
年に1度、打たれた日付で言うと毎年11月の20日前後に御城で打たれた碁の棋譜です。
道知は本因坊家の当主として他の家の当主と互い先の対局をしていた時代
当時はコミという概念が無いから、例えば今年先で打つならば来年は後手で打つという具合で2局あわせて互い先な分けです
(有名な話でしょうが)その頃道知は「先番ならば5,6目勝ち」「白番ならば2,3目負け」という結果が並んでいます。
つまり、たまたまそうなったと言えるような「出現率」を越えて人為的な操作が感じられる結果です。
黒番で5,6目勝つと言うのは、現代でのコミ6目半から見るとさして難しいことでは無さそうに思えるのですが、必ずそうなると言うと話は別。
白番の場合2,3目負けと言うことは・・・あまり意味の無い例えかも知れませんが、現代のコミから考えると、本来白が3,4目優位な感じです。
それらを考え合わせると(無理にこじつけて)現在アマの点数制の手合い割りで言うと、道知と対局相手との力量差は最低でも先の半分・先互先くらいは違ったはずですし・・・
必ず狙い通りの結果を作り出せると言うことであれば、実際は「先」以上「2子」くらいの差があったかも知れないと感じる。
素人の感想ですが・・・
少しオーバーだったかも知れませんが、あながち出鱈目でも無いかも
「林裕」さんの解説によれば、「他の3家による道知を碁所に推薦」が無いことに怒った道知が「今後の御城碁では誰と打っても思い切り戦いますぞ」と申し入れたところ、3家は震え上がったと言うことですから前の話の傍証になりそう。
つまり道知が思い切り打ったならば、他の家の当主は惨めな負け方を続ける事になる=即ち「囲碁を業とする家として怠慢」となるわけで、あってはならない事態
と言うことは裏で道知に頼み込んで「談合」が成立していたらしい。
今のように実力タイトル制ではなくて、囲碁家元全体が幕府の保護の下に存在していたわけで、皆が生き残るためのある種の方便だったのでしょう。
但し、その時代道知は存分に戦った対局は無いのでしょうね?・・・そういう意味では天才も一人だけしか居ないのも不幸かも知れない。
現代のように天才と思われる棋士が数多く居て、尚且つ海外にも強豪が多い
それはそれで大変なことでしょうが、一人だけと言う時代に比べたらなんと幸せなことでしょうね・・・アマですから暢気にそんなことを言っていられる?
勿論です、勝手なことを無責任に言えるのがアマの特権です。