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コラム(459):基地と沖縄―普天間基地問題
昨日の「沖縄問題を理解するために」に続いて、今回は、沖縄問題の根幹である基地について論じます。
基地問題を解決するには感情の整理を優先すべき
読者は米軍基地を直接見たことがありますか? 私は沖縄返還直された年の冬、先輩と一緒に沖縄に行き米軍基地を見る機会がありました。そのとき、不思議な感情がわいてきたのを今でも覚えています。ナショナリズムの運動をしていた私でさえ、日本の土地に米軍が存在していることに悲憤慷慨したのです。頭の中では、日本が反共の防波堤であることは理解していても、心では心底から納得していなかったからだと思います。
日本が戦争で敗北を喫し、自国の領土の中にかつての敵国の軍隊が存在するということ自体、左翼でなくともいい感じはしません。この感情はどの立場であれ存在するものだと思います。それだけに、米軍基地があるから日本は守られているといくら言われても、それは頭ではわかっていても感情ではなかなか納得できない、ここが基地問題の本質的な難しさの部分であろうと思います。
なかでも、沖縄は、戦争末期に米軍との死闘を繰り広げた記憶がいまもなお色濃く残っています。さらには、米国の施政権下に本当の15%に当たる土地を米軍に接取され、それがいまも米軍基地として使われているいます。沖縄の人たちは、本土のために二度も犠牲になっているという事実と感情に蓋をすることはできないと思います。
したがって、沖縄の基地問題を解決するためには、沖縄県民の感情をどうどのように昇華させていくのかが第一の優先課題で、日本政府は政治的思惑や利害関係を一切排除したうえで本気で向き合わなければ問題は解決しないと思います。左翼陣営は、この複雑な感情の部分を揺さぶって反基地闘争に利用しているのですから、いくら日本の安全保障のために必要だと言っても、心が動かないのは当たり前です。
余談ですが、沖縄に基地が必要なくなるときは、中国が崩壊した時です。中国の軍事的脅威がなくなれば沖縄の米軍基地の意味はなくなり、中国に駐留することになるかもしれません。しかも、後々には、日本の反基地闘争が中国を守るためのものだったことも明らかになると思います。なお、朝鮮有事の際は、沖縄の基地よりも福岡の板付や長崎の大村が前線基地になると思います。両空港の、朝鮮半島に直進できる滑走路の意味を考えればわかることと思います。
普天間基地の成立の経緯
さて、辺野古への移転が計画されている普天間基地は、住宅密集地に隣接し騒音被害、墜落事故による被害、海兵隊員の粗暴な振る舞いなどで、沖縄の頭痛の種になっています。
しかも、普天間基地は、メディア報道などによって、生活住民を押しのけて飛行場が建設されたように思われますが、実情は真逆です。1944年の写真からの変遷を見れば、普天間飛行場の周りに県民が移住し始めて集落ができ学校や病院なども建設されてきたという経緯があり、本音で言えば、基地が先で住民が後、しかも、後からきた住民がさきにあった基地に文句を言っているというのが本当のところです。したがって、普天間基地が悪いというのは、政治的目的のために使われているのであって、本質ではないということは最初に理解すべき観点だと思います。
かつて、私は『日本が日本であるために』というブログを書いていましたが、その中に、沖縄在住で沖縄県民の視点で綴るブログ『狼魔人日記』さんの「写真で見る普天間基地の歴史」を転載したことがあります。元記事も古いので、現在の際とのどこにそれがあるのかわかりませんでしたが、最近になって、宜野湾市民の主婦、玉城さんのブログに「普天間基地@米軍飛行場がある暮らし」に、普天間基地の歴史的経緯についての記述をみつけました。要約引用してみますと・・・。
普天間基地の建設地は広大なサトウキビ畑が広がっていました。そこにはいくつかの泉があり、それらを水源に畑作が営まれており、なだらかな小山が続いている丘陵地で広大なサトウキビ畑やサツマイモ畑が広がる村でした。この写真(当ブログの冒頭の一番左)は、1944年(昭和19年)9月に米軍が上陸用の作戦地図をつくるために撮影した写真だそうです。広大な畑が広がっている様子がわかります。
1945年(昭和20年)に普天間飛行場が整備されました(真ん中の写真)。1945年(昭和20年)の沖縄戦の最中、宜野湾一体が米軍の支配下に置かれると、米陸軍工兵隊が民間地を強制的に取り上げ(接収)、米軍上陸と同時に普天間飛行場建設が始められました。
この写真(ブログ冒頭の一番右)は、2005年当時の普天間基地上空の写真です。報道などで、私たちがよく目にする写真ですが、最初にこの写真を見ると、あたかも現在あるような住民生活を押しのけて普天間飛行場が建設されたような錯覚に陥りますが、1944年の写真からの変遷を見れば、むしろ、普天間飛行場の周りに住民が徐々に住み始めて集落ができ、学校や病院なども建設されてきたという歴史があることが理解できるかと思います。
普天間飛行場の成立の経緯を正直に述べておられるところに共感が持てます。ここでいう、基地問題とは、後から住み始めた住民たちが基地に苦情を言い始めるように仕向けた勢力がいたから起きたと言えると思います。
この後、普天間基地問題は、反米ナショナリズムきから反米親中の利権に変質します(次回につづく)
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