だんだん年をとると思考の自由度がなくなる私の昨今だが、靖国神社を参拝する際に
他の国から意見される筋合いはないと考える。
よく公人としてか私人としてか?と聞く日本のマスコミの毎年の定例質問にもちょっと呆れるのだ
つまるところ、「先の大戦を引き起こしたとされるA級戦犯の御霊が」靖国神社に合祀されていることが
問題の本質なのだと捉える事が多いのだ。だからA級戦犯のみを別の場所に移すべきだという
意見が出るが、移したら移したで「特別扱いしている」などと言われることは目に見えている。
ということは少し置いておき、B、C級戦犯や名前すらわからない人達も、日本の国家神道の精神に
基づき靖国神社に祀られている事を、国はまず国民にわかりやすく説明するべきである。
B、C級戦犯とされた人の中には戦争中「上官の命令が絶対視されていた」中で、例えば捕虜を殴打する
などした人間も含まれている事を知っているだろうか?或いは隣組という日本政府が作り上げた
密告制度により、あいつは気に入らないから「不戦論を言っているのを聞いた」などといわれて、憲兵の
拷問にあった上に、戦争が終わって安堵しているところに突然アメリカのMPに捕まり投獄された人も
いる。戦死した人はもちろんだが、大戦がなければ「ごく普通な市井のいち市民」だったであろう人も
時代の大きなうねりに巻き込まれ命を落としているのであり、その御霊が安らかになることと、
同じ過ちを繰り返さないという不戦の誓いをするのならば、そこには公人も私人もないのではないか?
東條のある文書を読むと、実は山本五十六などと共に不戦論者だということが推察される文章が
ある。では誰が・・・といえばそこは彼らにとって命令権のある人というしかないが察しはつくと思う
いずれにしても、戦後70年「深い反省」の言葉を言いたくても言えないのである。
そうした名も無き人々の犠牲は大きくて、それが今の日本の礎(いしずえ)となっていることを
考えることが肝要だと思うのだが・・?