実は 彼はキリシタンのことを調べていた時期があって、さらには
内緒ながら 多少の顔見知りである。敬虔なクリスチャンである
幼児洗礼をあの時代にというのは珍しい。イエスキリストについて
日本人とキリスト教について 文学から攻めていったのは彼が最初かもしれない
しかし晩年に「車いす生活になり」その前に「法王に面会した後あたり」から
いわゆる純文学作品に 「死への恐怖」が色濃くなり晩年の「深い河」などは
作品に値しない 自ら培ってきたであろう宗教・人生価値のことを「死に直面し
おびえながら」書いて内面的に自死してしまっているように思える。
彼の膨大な作品の中では見向きもされないであろう「汝もまた」という短編が
あるのだが せめて せめてメディアに出るときのほんの数分間だけでも
虚勢を張ってもらいたかった。
もっとも 彼は神の子イエスをキリスト教学的に復活の前提として希望のある
死とは書かなかった。恐ろしくみじめな無理解な使途、群衆の嘲笑や罵倒を
浴びて人間的な死だと書いてカソリックから総スカンを食らったことがある。
批判するほうもおバカ大馬鹿で禁書にしたとあるが、自らのみじめな死を、
イエスキリストの最後と重ねたのかもしれない