Akatsuki庵

後活(アトカツ)中!

新・明智光秀論

2021年01月24日 09時52分53秒 | 美術館・博物館etc.

令和2年度 冬季展 財団設立70周年記念『新・明智光秀論 細川と明智 信長を支えた武将たち』 サイト
※1月31日(日)まで

大河ドラマ『麒麟がいく』も本能寺の変へ向け佳境~と言いつつ、なぜか今一つ面白くない。
コロナ禍の影響をもろに受け、キャストは揃わず、大掛かりのロケも出来ずで脚本を変更せざるを得ず~
なんだろうなぁ。

そのためか、援護射撃的な歴史探訪番組がやたら多い。さすがNHK。
その中で面白かったのがBSプレミアムの『英雄たちの選択』。

今週の放送が『真相!本能寺の変 細川藤孝 戦国生き残り戦略』。
今回の展覧会も紹介されていて、「ほー。こういう切り口をみると古文書も興味深く鑑賞できるのかぁ」と思ったら、
無性に観に行きたくなった。

というわけで、緊急事態宣言下ではあったけど、昨日行ってきた。
冷たい雨が降る中を随分歩いて、やっと辿り着いた永青文庫。

道中も人通りが少なかったし、雨の中で修復された建物がやたらきれい。

 入口もいい雰囲気。

外は人がいなかったし、開館から30分以内というのに、内部にはそこそこ見学者がいた。
(やはり、同じことを思った人はいたようで)

織田信長の書状を多く所蔵していることは知っていたけど、殆どが戦況報告に対する「いいね!」的な返信。
きっと、こういった報告と了解は柴田や羽柴ともやっていたのだろうし、特に明智ともやっていたのだろう。

ただ、細川家が唯一戦国を生き延びて江戸から現代まで残った家というのに加え、
こういった文書を大事に保管する家だったから、伝え残ってきたのだ。

データベースの重要性を戦国時代から理解していたのがすごい。
もっとも、お公家さんは日記とか小まめに書いて後世に遺しているから、
細川家はお公家さんのそういったところの影響を受けているのかもしれない。
古今伝授継承者ということでも、その繋がりの深さがわかる。

藤孝自身は自らの考え方を外には出さない、というか出せなかったのだろう。(それが命取りになるから)
だから、日記をつける代わりにもらった書状はほぼ全て保管したのだと思う。
戦国武将だし、日記を書く暇も、出した書状の写しを残す時間もなかったのだろうと思われる。

でも、全てを残したワケではないらしく、例えば本能寺の変直後に光秀からもらった書状。
直後の1通目は甘い言葉が書かれていたので自分には不利を処分し、
誘いに断ったことが書いてある2通目だけを残したのではないか、という『英雄~』の推理。
なるほど。

確かに、歴史を残すのは勝者で、自分たちに不利な記録は残さない。だから、真実がわからないのは世の常。

ただ、息子の忠興は少し甘かったようで、息子の忠利には光秀の思い出を懐かしい気持ちでチラッと書状に記すところが人間くさくていいなぁと思った。

養子として細川家に入り、家を守ることに徹した藤孝は本当にしたたか。
古今伝授を次に伝えることも自らの命を長らえるために中途半端にした上で関ケ原の戦いに伴う田辺城籠城戦に入るとか、
相当な狸おやじぶり。(天皇家から敵方に助命をいくことを見越しての対応)

それゆえか、なぜか蘭奢待の破片まで持っているのにはビックリ。
大河ドラマでは信長が蘭奢待を切り取り、一部を正親町天皇に献上したのに、
正親町天皇はそれを不快に思って、毛利家に下賜していた。
おそらくそれは史実に基づくのだろう。
それが、一部の一部かもしれないし、もっと後の時代かもしれないけど回りまわって細川家へ。

ホーと思う。

蘭奢待は一昨年、令和改元記念の正倉院展で拝見した。
その切り取られた部分が本当に小さい欠片として目の前にあるのが不思議な気分だった。

さて、光秀。
本能寺の変を起こした直後に味方に引き入れようとする(2つ目の)書状。

項目ごとに謀反を起こした理由を意図を切々と書いているところが事務方の人だったのだろうと思わせる。
そして、その事務能力の高さはおそらく藤孝以上で、きっと細川家以上に頻繁に信長と書状のやりとりがあったのだろう。

現代のようにメールやLINEばりのような報告をすでに450年前にやっているというか。
いや、当時にメールやLINEがあればすごいことになっていたかと。
(そういえばNHKが深夜帯に『光秀のスマホ』というパロディドラマを放送していたなぁ)

現代でもそうだけど、既読スルーをやたら気にするとか、レスが遅いとか、文字を介したコミュニケーションは
やたらとトラブルを生みやすく、かつメンタルに打撃を与えることもある。

しかも、当時は人馬が介する戦国の世の書状の往復だ。
感覚は現代ばりの情報処理能力をもっていたかもしれない両者(信長と光秀)の間に些細な行き違いから誤解が生じてしまったら、
精神的なストレスはかなり高くなるだろう。

溜まりに溜まったストレスの果てに、一発やってしまうこともあるかも。

本能寺の変の勃発もそういうところにあったのでは。
と、細川家に遺る信長(の祐筆による)「報告ありがとう。今後もよろしく」の書状を観ていて、そう思わざるを得なかった。

誰かが「日本史における、どーでもいい三大事件」の一つに本能寺の変を挙げていた。
理由は「光秀がやらなくても、どうせいつか信長は背かれた」から。なるほどね。

本能寺の変のその後ということで、細川ガラシャの書状や関ケ原の戦い前夜に命を落としたことを記す展示も興味深い。
関ケ原直前の人質作戦で一番先にターゲットにされたのは、もともと細川忠興と石田三成の仲がよくなかったからだとか。

へぇ~。それ、初めて知った。

ガラシャの書状、散らし文で優雅というか面白い。

最後に2階で細川忠興の茶道具を拝見。
出雲肩衝と長次郎の黒楽茶碗「おとごぜ」、粉引茶碗「大高麗」(←本当にめちゃ大きい)。

いずれも、永青文庫の展覧会で見ているはずだけど、少し小出しにされると解説文を少ないだけにちゃんと読む。
そして、今更ながら知ることも多くて。

例えば、千利休作の茶杓「ゆがみ」。
忠興自身はこれを他人に譲っていたのねぇ! 江戸時代になって、また戻ってきたようで。
譲る際の添え状には「涙が出る」と書いてあるけど、そんなにしてまで譲る事情って?と思ってしまう。
(過去の図録にその辺が書いてあるかも)

また、びっくりだったのが南蛮芋頭水指。
利休所持で北野大茶会でも使われたものらしい。
忠興はそれをわざわざ壊して、それを櫃に入れて戦場にも持って行ったらしい。
(それくらい大好きで、他人に取られたくなかった)
そして、継いで復元した。

壊すところは古田織部入ってるなぁ。
改めて「へうげもの」を読み返したくなった。

大西浄清の四方釜「とまや」を見て、ホッとした。
やはり、角が丸くて優美なフォルム。
そっか、浄清って、忠興の時代の人でもあるんだなぁと改めて思った。

そして、勝竜寺跡のPR映像(12分間、長岡京市制作)を視た。

そういえば行ったことないなぁ。
近くはすごくよく通るのに。

一度、途中下車して散策してみたいと思った。

そして、また冷たい雨の中を帰った。

年が明けて、美術館関係を訪れるのは3回目。
いずれも休日に1日1か所。
ハシゴせず、寄り道せず、極力歩けるところは歩く。

昨日もうっかり有楽町を通ってしまうと、ランチしたくなっちゃうから
帰り道はそのルートを避けた。

これが緊急事態宣言下で密を避けた私なりの考慮した行動パターン。

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