先週の「江」は大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした秀忠が江戸城へ凱旋し、「父を許さぬ!」と叫ぶ千姫らと対面することになるお話でした。そこで秀忠が語った言葉。「悔いはない。豊臣を継ぐ者を後の世に残すことはできない。それが戦国の世。そのような世を終わらせたい。血を流すのは自分が最後、子や孫が血を流すことは断じてない」
この言葉は脚本家の創作ですが、脚本家が「江」で一貫して主張してきた「戦国の世に一族を担うものの重い責任」を表現するにはよくできた言葉だと思います。この番組を通じて「氏族長の責任」について世の中に理解が広まることをとても期待します。
というのも、本能寺の変の真実解明にはこの理解が不可欠だからです。「戦国武将は一族繁栄に重い責任を負っていた。それは自分一代のことではなく、子や孫や末代までに及ぶ責任である」ことを理解して、初めて光秀謀反の心、信長の家康討ちの心がわかるのです。拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』を読まずして、「信長が同盟者の家康を討つわけがない」と現代人感覚で決めつけてしまう方には是非考えていただきたいところです。
さて、家康を滅ぼさなかったために自分の一族を滅ばされたことを知ったとしたら豊臣秀吉はさぞ無念だったことでしょう。拙著をご理解いただいている方は「信長のように家康を滅ぼそうとすべきだったのに。信長と秀吉の先見性の差」と思うのではないでしょうか。
ところが、秀吉も家康を殺そうとしたようです。実は、そのような記述を残した人物がいます。
それは家康家臣の大久保彦左衛門忠教(ただたか)です。『三河物語』という一族の子孫のために書き残した書物の中に書かれています。以下に現代語訳版から抜粋してみました。小牧・長久手の戦いののちに家康が上洛して秀吉に臣従した後の話として書かれています。
「しかし、家康が危険だとお思いになったか、その後、毒を飲まそうと、ごちそうのなかに毒を入れた。大和大納言(豊臣秀長)とならんでおいでになったが、上座においでになったのを、ご運が強かったので、ご膳のでるとき、遠慮をなさり大和大納言の下座にまわった。家康の飲むはずだった毒を、大和大納言が飲んで、死にはてなさった」
大久保彦左衛門はこの事件の当時に生きていた人物ですので証言の信ぴょう性は高いことになります。豊臣秀長は秀吉の異父弟で秀吉を支えた豊臣政権のナンバー2。天正19年(1591年)1月22日に病死したとされています。果たして、間違って家康を殺すための毒を飲んで死んだのでしょうか?
この話の裏付け情報は得られていませんが戦国の世では当然あっておかしくない話でしょう。「秀吉や信長が同盟者の家康を殺すわけがない」とお思いの方には一考いただきたい材料です。
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というのも、本能寺の変の真実解明にはこの理解が不可欠だからです。「戦国武将は一族繁栄に重い責任を負っていた。それは自分一代のことではなく、子や孫や末代までに及ぶ責任である」ことを理解して、初めて光秀謀反の心、信長の家康討ちの心がわかるのです。拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』を読まずして、「信長が同盟者の家康を討つわけがない」と現代人感覚で決めつけてしまう方には是非考えていただきたいところです。
さて、家康を滅ぼさなかったために自分の一族を滅ばされたことを知ったとしたら豊臣秀吉はさぞ無念だったことでしょう。拙著をご理解いただいている方は「信長のように家康を滅ぼそうとすべきだったのに。信長と秀吉の先見性の差」と思うのではないでしょうか。
ところが、秀吉も家康を殺そうとしたようです。実は、そのような記述を残した人物がいます。
それは家康家臣の大久保彦左衛門忠教(ただたか)です。『三河物語』という一族の子孫のために書き残した書物の中に書かれています。以下に現代語訳版から抜粋してみました。小牧・長久手の戦いののちに家康が上洛して秀吉に臣従した後の話として書かれています。
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