本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

大河ドラマ「江」の歴史捜査39:秀頼と家康の対面

2011年10月10日 | 大河ドラマ「江」の歴史捜査
 昨日の「江」は徳川家康に呼び出された豊臣秀頼が意を決して家康と二条城で対面する話が山場でした。
 この時の秀頼が実に堂々とした態度で父・秀吉の家康に対する所業を詫び、豊臣家と徳川家とが協力して天下泰平の世を作っていきたいと述べました。この話は脚本家の創作で、おそらく秀頼の人物の大きさを感じた家康が豊臣家を滅ぼす決意を固めるという筋書きになっていくものと思われます。
 これは脚本家の創作だったとしても有り得る話に思います。子子孫孫にわたり一族の繁栄の責任を負った戦国武将にとっては子の代、孫の代の勢力関係がどのようになるかは最大の関心事だったからです。平清盛源義朝の子(頼朝や義経)を殺しませんでした。そして、その子らによって自分の一族は滅ぼされました。この歴史は平家物語として語り継がれ、反面教師として戦国武将の頭にこびりついていたでしょう。だから、織田信長浅井長政の子・万福丸を迷わず処刑したのでしょう。
 秀でた子の存在はたとえ今は味方の子でも危険な存在だったのです。戦国時代だけでなく中国の王朝の変遷の歴史をみても同様です。秀でた子が身の危険を感じて何をしたかというと、殺されないように馬鹿を装って生きることだったのです。そのような話は『十八史略』など中国の歴史書には頻繁に出てきます。
 そうしてみると、信長が若い頃に「うつけ」と言われたのは信長の演技だったかもしれません。当時の尾張の織田家は一族の内部抗争で複雑な動きがありました。一族に殺されないように信長が馬鹿を演じた可能性は高いと思います。
 歴史に学ぶとは、現代の知識で過去の歴史を推論することではなく、その時代の精神・考え方や空気といった背景を知った上で虚心坦懐に真実を読み取ろうとすることだと思います。
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明智 憲三郎
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2 コメント

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さすが明智先生! (福島県在住)
2011-10-10 22:36:02
昨日は江を見てからはじめて面白いと思えました。
10月ですから、面白くするのが遅すぎましたね。

豊臣秀頼は大うつけのふりをしていたんでしょうか?
明智先生のご見解を教えてください
返信する
そうですね (akemi)
2011-10-12 21:37:24
今、この時代も歴史に刻まれているわけで、どんな時代にもその時々の精神や背景・空気の流れを察する才能を持った者が上に立つ人になれるのでしょうね。でもそれを虚心坦懐に受け止めることは出来ないから、歴史が苦手なのかしら・・明智先生のブログを見て少し歴史が好きになってきました(^^;)
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