民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「芸能入門・考」 はじめに 土方 鉄

2013年05月17日 00時25分25秒 | 大道芸
 「芸能入門・考」芸に生きる  小沢昭一・土方鉄  明石書店  1981年

 「はじめに」 土方 鉄

 前略

 たとえば、落語は江戸庶民の、笑いとかなしみを伝える、古典的話芸である。
ところが、いまのブラウン管にうつしだされる落語家たちは、いわばタレントであって、
芸人ではないように思える。
修行をつんできた本芸ではなく、司会や、ドタバタ劇を演じたり、へたな歌をうたったりしている。
それでいて、人気絶頂などと、うかれているのだから、救われようがない。・・・と思えるのだ。

 中略

 よくいわれるように、テレビの普及は、大道芸や、放浪芸の人びとや、旅まわり一座などを、
事実上放逐してしまった。
これら、民衆に生き身の芸をみせていた人びとが、姿を消すようになったのは、
時代の移り変わりとはいえ、残念のきわみである。

 私は最近、インドへいってきたが、そこで素朴な大道芸をみるチャンスにであった。
猿まわし、熊つかい、コブラつかい、太鼓たたき、街頭奇術、軽わざなどである。
 私は、それらをみて、生きた人間の演じる生活のための芸の、必死のおもいに、心がゆれ動いた。
私は、彼らが、インドにおける被差別カーストの人びとであることを知っていたから、
その思いはよけいに強かったのかもしれない。

 芸能の最初の姿は、こうした姿であった。
そして、それはインドに限らず、わが国においても同様であった。
しかも、テレビが出現するまでは、そうした大道芸、放浪芸は、たやすくみられたものであった。

 さらには、民衆がうたう民謡や、民衆がたのしむ踊りなどの、生活と労働にむすびついた芸能が、
大きな裾野をつくっていたのである。
その裾野がひろいほど、専門芸人の芸もまた、その結晶度を高めるという関係にあったと思うのだ。

 今日の、わが国の芸能の貧困は、こうした関係が、失われたことによるといっていいだろう。
そして、失われた原因は、農業労働の機械化の進行と、テレビの出現によることはあきらかである。