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「猿まわし復活」その調教と芸 その2 村崎 義正

2013年05月25日 00時01分12秒 | 大道芸
 「猿まわし復活」その調教と芸 その2  村崎 義正(昭和8年生)著  1980年(昭和55年)出版

 高洲では、猿回しの旅に出ることを、「上下ゆき」と呼んでいた。
字が示す通りで、高洲を起点にして、京阪神や東京方面に旅することが上(じょう)、
九州方面に旅するのが下(げ)で、上り、下りの旅のことを合わせて上下ゆきと呼んだのである。
(中略)
 調教は誰にでもできるものではない。
猿は猛獣であるから、気力、体力、すべての点で、猿にまさる者でなければならない。
弱い人間が調教をこころみたら、あべこべに噛み付かれてしまう。
また、調教師は、練習は人前でやるが、芸の根切り(仕上げ)は、人前ではやらない。
根切り法を他人に見せると盗まれる。
盗まれたら飯の食い上げである。

 芸態は二種類ある。
ドカ打ち(戸別訪問)バタ打ち(街頭、広場で人集めする)であるが、
ドカ打ちは一軒、一軒訪問して猿に芸をやらせ、なにがしかの銭を貰う。
少しでも多く稼ごうと思えば長居は無用であるから、
猿が直立歩行をし、輪抜けか、宙返りができればいい。
このドカ打ちは、物貰いに毛が生えた程度の芸能なので、きびしい差別の洗礼を受けることになる。
バタ打ちは、街頭や広場で多数の人を集めて、人の輪の中で猿に芸をおこなわせて銭を取るので、
はっきり芸能と銘打てる芸態である。

 ドカ打ちは一軒、せぜい、一銭か、二銭なのに対し、
バタ打ちは、多数の観客から金を取るので一回、五十銭、一円の稼ぎになる。
そのかわり、猿も人も芸達者でなくてはいけない。
一回、せいぜい、十五分か二十分の演技であるが、輪抜け、宙返りはもとより、
逆立ち、竹馬、綱渡り、芝居など、すくなくても十種類くらいの芸がこなせなければさまにならない。
芸人は口達者で声がよくなくてはいけない。
多くの人前での演技であるから、押しも強くなくてはいけず、誰にでもやれるものではないから、
稼ぎがよいのはわかっていても、おいそれとは手が出せない。

 高洲の芸人達のほとんどは、芸人になるための修行をおこなったことのない素人の、
にわか芸人であり、ドカ打ちがせいいっぱいである。
親方に引率されたにわか芸人達は、故郷を発つ前、親方から、三十円から百円の賃金の前借をおこなって、
一年分の生活費として妻や子に渡してゆく。
親方は前貸しをすると芸人を束縛でき、無理な使役ができる。
芸人の側からすれば、まずしいからやむを得ないが、一年間の身売りであった。

 親方は、子方を夜明け前から追い出し、とっぷり日が暮れなければ帰さない。
一日二円のノルマが果たせなかった者は、夜、門付けなどをやらせて、ノルマを果たさせた。
ノルマが果たせない日が続くと、柱にくくりつけたり、ソロバンで殴ったり、
焼ゴテを当てたりして残虐の限りをつくした。
一年の旅で、前借が返済できなかったら、次の年は、前借なしで、旅に出なければならない。
(中略)
 上下ゆきは地獄ゆきとわかっていて、旅立ちしなくてはならなかった芸人達が住んでいた高洲は、
余りにもまずしかった。
(中略)
 高洲の者に与えられた仕事は、死牛馬の処理とであった。
とは役人の下働きであるが、牢番、犯人の護送、刑執行の手伝い、犯罪人逮捕の手伝い、
警備などであった。
一日稼働して米七合の給与だった。
一年間通して働けるわけではないので、とうてい、生活がなりたつほどのものではない。

 死牛馬を処理して皮は藩に納め、肉は貴重な食料になった。
ところが、死牛馬を食べるというので、浅江の里人に、激しい差別を受けることになる。
法制上、最下層のエタ身分に落とされていたが、
生活実態からも差別されるよう毛利藩が仕組んだのである。

 死牛馬の処理やだけでは生活ができないので、
自然の中から、食べられるものならなんでも取って来て食べた。
部落史を書くのが目的でないので、その実態をのべることができないが、
とにかく、高洲での生活は、原始生活に近い状態であったと、思って貰えばいい。
(中略)
 猿回しが、高洲の砂っ原で、一大芸人村を形成しえたのは、
この地には、生きる条件が皆無であったのと、
どのような過酷な条件のもとでも生き抜いて来たバイタリティが、
猛獣をうむを言わさず組み敷くところまでつちかわれていたからである。
甘く育った人間には猿は組み敷けない。

 仕事のない高洲の人達は、手っ取り早い稼ぎとして猿回しになり、上下ゆきを始めたが、
国民に親しまれる反面で、うすぎたない大道芸人として差別され、親方には、しぼられしごかれ、
家族とは永い別居生活で、辛く、苦しく、日送りをしていた。
地元にいて、かつかつ仕事が得られ、家族と一緒におかゆでもすすっておれるなら、
誰がいまいましい猿回しなどになるであろう。
こうして、昭和の初期、一本立ちでいい稼ぎになるバタ打ちを残して、高洲のまずしい人々は、
自らの意志で、猿回しを捨てていった。(P-33~P-39)